第35回 星野崇(tetratone Inc.)
無個性がオリジナルを生む
さまざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はWebデザイナー、テトラトーンの星野崇さんを取材しました。独立して会社設立1年目となった現在までの足跡をたどり、デザインを志した「原点」を振り返っていただきましょう。
第1話 推薦で筑波大学に入学
代々木のオフィスにて、星野崇さん
──小さい頃はどんな子供でした?
星野●意外と普通でしたね。特に個性的だったというわけではなく、外で遊んでばかりでした。放課後はサッカーばかりやってましたし。
──小さい時、夢は何かありましたか?
星野●漫画家になりたかったです。いろいろ読んでましたが、士郎正宗さんの『アップルシード』や『攻殻機動隊』が大好きで。
──自分でも実際に描いたりしたんですか?
星野●一回だけ『少年ジャンプ』に応募しました。高校に入ってからでしたが、まったくダメで。ファンタジーの漫画を描いたんです。結構、絵はちょこちょこ描いていたので「試してみるか」と。でもきちんと描いたのは、その一回だけでしたね。
──美術はやっぱり得意でした?
星野●はい。小学校の頃から図画工作は好きでした。
──部活は?
星野●中学では卓球をやって、高校ではバドミントン。運動は好きでしたが体育会系すぎるのは苦手で、マイナースポーツを選んでましたね。
──高校は?
星野●公立です。浦和西高校。兄の影響だったのですが、同じ高校に通っていて、そこは私服で自由な校風だったんです。僕もそういう自由なところに行きたいなと。授業はごく一般の普通校でしたが、『自主自立』を掲げていて、独自の雰囲気はありました。自転車で登校したらジャージに着替えて、サンダル履いて授業を受けていましたね。
──進路は?
星野●基本的に絵は好きだったので、大学を決めるときに親と相談して「美大を目指してみれば」と。僕自身は全然、具体的にどうするか決めてなかったのですが、そういう勧めがあって、きちんと絵を勉強してみようかなと。で、高校3年生から予備校に通って、勉強をしたんです。
──どこを受けたのですか?
星野●実は推薦の話があって、筑波大学の芸術専門学群です。だから、自然の流れというか。その頃、筑波ってつくばエクスプレスもなかったし、結構辺境の地だったので微妙だったのですが(笑)。予備校の先生にも「おまえ、ちょっと考えたほうがいいよ」とは言われて、多摩美、ムサビ、藝大を目指したほうがいいんじゃないかと助言があったのですが、推薦で国立に入れるというのもなかなかないので。基本的には自分で勉強すれば、どこでやっても一緒かなと。
──入学してからは?
星野●予備校同様、デッサンからいちからやって、講義のジャンルが結構広かったので、デザイン、日本画、洋画、書道、彫塑、生産デザイン、環境デザインなど一通り全部網羅しましたね。あと筑波は芸術以外の他学郡の授業も受けられるので、哲学とか。そういう意味では面白い大学でしたね。
──専攻は?
星野●視覚伝達デザインです。選んだのは予備校からの流れなんですが、その予備校はデザイン科と油科のふたつしかなかったんですね。で、当時の油科の学生が人物画に原色系の色を塗りたくっていて、爆発してて(笑)。その当時の僕にはアーティスティックすぎて、なんでこんなすごい色を使って絵を描くんだろうと、ちょっとよくわからなくて。でもデザイン科はきれいな平面構成とか、そいうものを作品で作っていたので、パンフレットを見ながら「油科はないなぁ」と。
──デザイン的なものに興味はあったんですか?
星野●その頃は全然デザインって何もわかってなかったです。完全に絵を描きたいという理由だけだったので。そういう理由で大学に行こうという感じ。デザインという世界があるってこともよくわからなかった。
──じゃあ、大学の授業を通してデザインに触れて?
星野●そうですね。初めて「デザインってこういうものなんだ」と気づいて。
──どんなことを学びました?
星野●イラストレーション、広告、タイポグラフィ……基本的に絵を描くのが好きだったので、やっているとすぐ自分の手を動かしてしまう。だから、イラストとかは得意でしたね。印刷や製本の授業をやっていても、どこかに手描きの絵を入れてました。
星野さんの仕事より
株式会社ミクシィ 新卒採用情報2010 ホームページ/株式会社ミクシィ/2008年/AD+D:星野崇/Flash:上妻礼
次回、第2話は「Web制作会社に就職」を掲載します。
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
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