さまざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はグラフィック・デザイナーの炭谷賢さんを取材し、今日までの足跡をたどります。
第1話 高卒後、バーテンに
初台の自宅にて、炭谷賢さん
カメラ小僧だった少年時代
──小さい頃はどのような子供でしたか?
炭谷●結構、外で遊び回っているタイプでしたね。一人で遊ぶよりは、友達といるほうが多かった。小学校の後半からはカメラが趣味になり、父親の一眼レフを借りて、写真を撮りに一人で旅行にでかけたりしていました。いわゆるカメラ小僧ですね。
──ご家庭は?
炭谷●父親は普通に会社員で、小学生のときに母親と離婚しているんです。母は和楽器の演奏者で、日本音楽集団というところに所属していました。いまは教える立場にいます。
──芸術的なものは家にあふれていました?
炭谷●視覚的なものは特になかったですね。母親の琵琶や琴しかなかった。だから結構、和楽器が嫌いだったんですよ(笑)。
──影響を受けて自分もやろうとは?
炭谷●音楽はやっています。いま、スペインのレーベルからリリースしていて、「Juno Records」より配信しているんです。
──ひょっとしたらお母さんの後を継ぐ可能性もあった?
炭谷●どうでしょう? 影響は受けていると思います。でも「仕事にはするな」と言われてて。食べられないから(笑)。ちゃんと仕事をして、自立していればいいんですけれど、はじめからそれを目指すのは反対されましたね。
──絵を描くのは好きでした?
炭谷●落書き程度ですが、教科書の端っこに描いたり、好きでしたよ。
──クラブは?
炭谷●中学のときにテニス部に入っていました。活発に……というか、やらされてましたね。特にスポーツ好きではなかったのですが、強制的に運動部に入らなければならない学校だったもので。みんな丸坊主でした。
──その頃、将来の夢とかは?
炭谷●なりたいもの、特になかったですね。みんな、文集とかで何になりたいか、書くじゃないですか。僕は本当に何もなくて、ただ好きなことをやって生きていければ……と(笑)。
──学校の成績は?
炭谷●中学は真面目に勉強していました。勉強すればそれなりに成績も上がるし、しなければ下位で。やればできる子でしたね(笑)。
──高校は?
炭谷●うちの近所にあった県立に進みました。楽に通えるし、それなりのレベルのところだったから、そこしか考えてなかったんです。でも、近いから逆に行かなくなってしまって。やっぱり高校に入って変わったんです。バンドでギターをずっとやっていたし。
──クラブは?
炭谷●入学してすぐにテニス部に入って、一週間で辞めました。こんなことするよりも、高校は遊ばなきゃって。ほとんど学校に行ってなかったから、ギリギリ卒業するような始末でしたが。うちの高校、入るとみんなバカになるんですよ(笑)。
炭谷●結構、外で遊び回っているタイプでしたね。一人で遊ぶよりは、友達といるほうが多かった。小学校の後半からはカメラが趣味になり、父親の一眼レフを借りて、写真を撮りに一人で旅行にでかけたりしていました。いわゆるカメラ小僧ですね。
──ご家庭は?
炭谷●父親は普通に会社員で、小学生のときに母親と離婚しているんです。母は和楽器の演奏者で、日本音楽集団というところに所属していました。いまは教える立場にいます。
──芸術的なものは家にあふれていました?
炭谷●視覚的なものは特になかったですね。母親の琵琶や琴しかなかった。だから結構、和楽器が嫌いだったんですよ(笑)。
──影響を受けて自分もやろうとは?
炭谷●音楽はやっています。いま、スペインのレーベルからリリースしていて、「Juno Records」より配信しているんです。
──ひょっとしたらお母さんの後を継ぐ可能性もあった?
炭谷●どうでしょう? 影響は受けていると思います。でも「仕事にはするな」と言われてて。食べられないから(笑)。ちゃんと仕事をして、自立していればいいんですけれど、はじめからそれを目指すのは反対されましたね。
──絵を描くのは好きでした?
炭谷●落書き程度ですが、教科書の端っこに描いたり、好きでしたよ。
──クラブは?
炭谷●中学のときにテニス部に入っていました。活発に……というか、やらされてましたね。特にスポーツ好きではなかったのですが、強制的に運動部に入らなければならない学校だったもので。みんな丸坊主でした。
──その頃、将来の夢とかは?
炭谷●なりたいもの、特になかったですね。みんな、文集とかで何になりたいか、書くじゃないですか。僕は本当に何もなくて、ただ好きなことをやって生きていければ……と(笑)。
──学校の成績は?
炭谷●中学は真面目に勉強していました。勉強すればそれなりに成績も上がるし、しなければ下位で。やればできる子でしたね(笑)。
──高校は?
炭谷●うちの近所にあった県立に進みました。楽に通えるし、それなりのレベルのところだったから、そこしか考えてなかったんです。でも、近いから逆に行かなくなってしまって。やっぱり高校に入って変わったんです。バンドでギターをずっとやっていたし。
──クラブは?
炭谷●入学してすぐにテニス部に入って、一週間で辞めました。こんなことするよりも、高校は遊ばなきゃって。ほとんど学校に行ってなかったから、ギリギリ卒業するような始末でしたが。うちの高校、入るとみんなバカになるんですよ(笑)。
炭谷さんの仕事より
上段/magazine『base』2007年
代々木八幡のレストラン「LIFE」オーナー・相場正一郎さんを主役に、ライターの山村光春さんとカメラマン押尾健太郎さん、そして僕での完全共同作ZINE。東京と地方とのリンクを主題にした、新しい指向の手作り感溢れるマガジン。
下左/Ferenc Snétberger『6 Strings 12 Songs』(muzak)
超絶ノマド・Jazzギタリストのアルバム。すべて木版画にて制作。
下右/Gato Libre『Strange Village』『Nomado』(onoff / muzak)
Jazzアーティスト田村夏樹氏と藤井郷子氏による、まったく「ストレンジ」なバンドのアートワーク。田村氏のストーリーテリングを元に、黒猫をモチーフに作画したもの。音が絵画的なので、アートワークもそれ風に描きました(笑)
上段/magazine『base』2007年
代々木八幡のレストラン「LIFE」オーナー・相場正一郎さんを主役に、ライターの山村光春さんとカメラマン押尾健太郎さん、そして僕での完全共同作ZINE。東京と地方とのリンクを主題にした、新しい指向の手作り感溢れるマガジン。
下左/Ferenc Snétberger『6 Strings 12 Songs』(muzak)
超絶ノマド・Jazzギタリストのアルバム。すべて木版画にて制作。
下右/Gato Libre『Strange Village』『Nomado』(onoff / muzak)
Jazzアーティスト田村夏樹氏と藤井郷子氏による、まったく「ストレンジ」なバンドのアートワーク。田村氏のストーリーテリングを元に、黒猫をモチーフに作画したもの。音が絵画的なので、アートワークもそれ風に描きました(笑)
消去法で残ったデザイナー志望
──進路を決めたのは?
炭谷●もともと大学に行く気はなかったんです。早く働きたくて。というか車が欲しかったんですね。あと、客商売がしたかったんです。飲食店で。
──理由は?
炭谷●人が好きなんですよ。で、バーテンをやり始めたんです。高校卒業する前、横浜のほうにたくさんバーがあるから、いろいろ回って、気に入ったところに飛び込みで「雇ってください」と。で、働き始めて、4年ぐらい転々としてましたね。DJを始めたのもちょうどそれぐらいで。その頃はレゲエやってたんですけど。
──デザイナーとしての原点、その頃にありました?
炭谷●原点は小学校かな。クラスで掲示する時間割とか、作るのが好きだったんです。ずっとそういう係をやっていました。ちょっと割高な紙を買ってきて、文字も線もきっちり描いて。単純に文字が好きだったんですね。
──レタリング?
炭谷●そうですね。あとバーで働いているとき、店に飾るポスターとか作るのが好きで、アイデアを出したり。でも、ずっと夜の仕事をするつもりはなかったので、そろそろちゃんと将来を考えなきゃと思って。かなり消去法だったのですが、自分に何ができるか考えたんです。で、やっぱりデザインやりたいな、と。それから桑沢デザイン研究所に入学したんです。
──いくつのときですか?
炭谷●22歳ですね。
──専攻は?
炭谷●リビングデザイン科です。で、2年からグラフィックに分かれて。
──入ってどうでした?
炭谷●学校で学ぶことというよりも、周囲の人からの情報とか影響、自分でMacを買って憶えたりしたほうが大きかったと思います。
──当時のマシンは?
炭谷●7100かな。学校では最初、教えてくれなかったんですよ。でも僕らは、これからはマシンがないとデザインできないと感じていたので「自分たちでやるしかない」と。学校の授業でコンピュータが導入されたのは3年目からでしたね。
──デザイナーになろうと強く思うようになりました?
炭谷●いや、それでもまだ迷いがありました。でも、逆にそれしかないかって。
──迷いとは、他にどのような道が?
炭谷●音楽。やっぱり、やりたかったんです。でも、全然先が見えないし、現実的ではないですから。さっきも言いましたが、消去法で選んでいったら、残ったのはデザインだったという感じ。それでも、まだ甘かったですね。本当に考え方が変わったのは、岩淵まどかさんに出会って、就職してからでした。
炭谷●もともと大学に行く気はなかったんです。早く働きたくて。というか車が欲しかったんですね。あと、客商売がしたかったんです。飲食店で。
──理由は?
炭谷●人が好きなんですよ。で、バーテンをやり始めたんです。高校卒業する前、横浜のほうにたくさんバーがあるから、いろいろ回って、気に入ったところに飛び込みで「雇ってください」と。で、働き始めて、4年ぐらい転々としてましたね。DJを始めたのもちょうどそれぐらいで。その頃はレゲエやってたんですけど。
──デザイナーとしての原点、その頃にありました?
炭谷●原点は小学校かな。クラスで掲示する時間割とか、作るのが好きだったんです。ずっとそういう係をやっていました。ちょっと割高な紙を買ってきて、文字も線もきっちり描いて。単純に文字が好きだったんですね。
──レタリング?
炭谷●そうですね。あとバーで働いているとき、店に飾るポスターとか作るのが好きで、アイデアを出したり。でも、ずっと夜の仕事をするつもりはなかったので、そろそろちゃんと将来を考えなきゃと思って。かなり消去法だったのですが、自分に何ができるか考えたんです。で、やっぱりデザインやりたいな、と。それから桑沢デザイン研究所に入学したんです。
──いくつのときですか?
炭谷●22歳ですね。
──専攻は?
炭谷●リビングデザイン科です。で、2年からグラフィックに分かれて。
──入ってどうでした?
炭谷●学校で学ぶことというよりも、周囲の人からの情報とか影響、自分でMacを買って憶えたりしたほうが大きかったと思います。
──当時のマシンは?
炭谷●7100かな。学校では最初、教えてくれなかったんですよ。でも僕らは、これからはマシンがないとデザインできないと感じていたので「自分たちでやるしかない」と。学校の授業でコンピュータが導入されたのは3年目からでしたね。
──デザイナーになろうと強く思うようになりました?
炭谷●いや、それでもまだ迷いがありました。でも、逆にそれしかないかって。
──迷いとは、他にどのような道が?
炭谷●音楽。やっぱり、やりたかったんです。でも、全然先が見えないし、現実的ではないですから。さっきも言いましたが、消去法で選んでいったら、残ったのはデザインだったという感じ。それでも、まだ甘かったですね。本当に考え方が変わったのは、岩淵まどかさんに出会って、就職してからでした。
次週、第2話は「アシスタント時代」を掲載します。
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
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[プロフィール] すみたに・けん●1973年神奈川県生まれ。桑沢デザイン研究所を卒業後、岩淵まどかさんのアシスタントを経て独立。現在、グラフィック・デザインの他、「STEREOCITI」名義で音楽活動も行っている。音源はスペインのレーベル「Deep Explorer Music」より配信中。 http://www.myspace.com/stereociti |