第1話 アカデミックへの興味がなかった | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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様々なジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回は浜田省吾、尾崎豊など、錚々たるアーティストのジャケットを手がけてきたアートディレクター、田島照久さんを取材し、今日までの足跡をたどります


第1話 アカデミックへの興味がなかった



田島照久さん

南青山のオフィスにて、田島照久さん


架空のレコード・ジャケットを作る



──小さい頃はどんな子供でした?

田島●幼稚園とか小学生の頃はやっぱり絵が好きで、よくバスなどを描いていました。あと砂場で遊ぶのが好きで、お城を造ったりとか。

──家庭で美術的な影響は?

田島●親戚の叔母や叔父に画家がいましたから、多少はあるかもしれませんね。でも、うちの親には「医者になりたい」と言って、喜ばせていたという話をよく聞きます。実家は別に医者ではなく、サラリーマンの家庭でしたので、子供ながらのポーズで言っていたのかもしれませんが。

──学校は?

田島●大学に上がるまでは、公立の小中高です。美術部は中学のときに入ってみようかと覗いてみたのですが、あまり魅力を感じなくて。いわゆるアカデミックなところに魅力を感じなかったのかもしれません。

──では、美術部への入部体験はなく?

田島●高校で入りました。入ったけれど、顧問の先生が彫刻の方だったんです。でもその頃、興味あったのはビートルズに代表される当時のロック。だから美術部に入って、デザインを教えてくれる先達はいないけれど、見よう見まねで勝手にレコードのジャケットを作ってみたりしてました。

──音楽はもう、のめり込んで?

田島●好きでしたね。中学校2年の頃にビートルズがデビューして、リアルタイムでビートルズから音楽を衝撃的に受け入れた世代です。その前は『ウェストサイドストーリー』とか、アメリカ寄りのミュージカルとかは聴いていたのですが、ロックというカテゴリーで衝撃を受けたのはビートルズでした。

──音楽の趣味と美術部が合体したんですね。

田島●そうですね。その頃、まだ写真を撮る技術はなかったので、雑誌を見ながらそれを模写したり。同時にアメリカのビーチボーイズなどが好きだったので、架空のサーフィンミュージックのアルバム・ジャケットを作った記憶があります。タイポグラフィも全部手で、ポスターカラーでアルファベットを書いていって。その頃はインスタント・レタリングなんて、なかったですから。

──それで一人、悦に入って?

田島●はい(笑)。あと一応、文化祭など発表の場もありましたから。

──バンドは?

田島●やってました。高校の2年ぐらいから。その頃はインストゥルメンタルのバンドでしたね。僕らはイギリスのシャドウズ派で(笑)。学校に内緒で、隣町の久留米にあるダンスホールにもときどき出演してました。そのときは歌を歌わされるので、当時のヒットチャートの曲を憶えて演奏してたんです。


「桜島の観光ポスター」1966-1967
「桜島の観光ポスター」1966-1967高校生時代の作品「桜島の観光ポスター」1966-1967
イラストと文字、すべてポスターカラーで描いたもので、
右は九州の高校デザイン展で最高賞を受賞。
「学校を休んで受賞式典に参加した後、
ボウリングをして遊んだのを覚えてます。
確かそのころは高校生はボウリング禁止でした」





あまり褒められない美大時代



──勉強のほうは?

田島●中学までは結構頑張っていたと思いますが、高校に入ってからはまったく勉強しなかったですね。音楽と美術ばかりで。

──進路はどうしようと?

田島●高校3年のとき、やっぱり美術の方面に行きたいから、東京の美大を受けたいと話したら、先生に「受かるわけない」と言われまして。で、とりあえず学科を勉強して。でも田舎でしたから、デッサンの勉強をするようなところが近所にないんです。で、それこそ見よう見まねでデッサンを学んで。

──受験先は?

田島●東京藝術大学と武蔵野美術大学、そして多摩美術大学を受けました。藝大とムサビは学科で落ちたんです。1年か2年は浪人するつもりでしたが、運良く多摩美に受かってしまった。でも、入学して最初の鉛筆デッサンが55点で、クラスで最低だったんです。

──ショックでした?

田島●ええ(笑)。でも、卒業するときは木炭デッサンで95点ぐらいもらった。だから大学に入ってうまくなったんですね。

──授業を通して、デザイナーを目指すようになったのですか?

田島●いや……奥手で、状況がわからない田舎者でしたから、そこまで具体的には考えなかった。やっぱりみんな、美大に入った後はそれなりに自分の意志で、進路を含めて真剣に考えていると思うんです。そういう意味では自分に投資する期間だと思うし。でも僕はそういうことをまったく考えてなくて。これ幸いとばかりにバンドやったり、遊びは一所懸命やってて。

──音楽の道を目指そうとは?

田島●あ、それはまったくなかったですね。才能ないと思っていましたから(笑)。

──では、漠然と学生生活を満喫して?

田島●まあ、課題も多いですから、そこそこはやっていましたけど。大学入ったからデザイナーになることを意識したかというと、意外とそうでもなかった。もちろん大学だから彫刻の連中もいれば油絵も日本画もいるわけで、そういう意味では別の科の人との交流も多くて。デザイン科の人とだけ遊ぶわけではなく、バンドもいろんな科の人とやっていましたからね。結局、大学のアカデミックな部分への興味が、あまりなかったんです。それは褒められることではないですけれど。


MAYA浮遊
71/71 ozaki yutaka box

田島さんの最近の作品より
左:ma-ya『浮遊』2003年(サブスタンス)
「近年の作品で気に入っているもの。PVも作り、この絵が動きます。なぜか、そのPVがNHK教育で一週間流されました」
右:71/71 ozaki yutaka box/2007年(ソニーミュージックエンタテインメント)
「レーベルを超えてコンプリートしたボックスセットで、分厚い本が付いています。なんと2日間で完売だったそうです」

次週、第2話は「CBSソニーに入社」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)

田島照久さん

[プロフィール]

たじま・てるひさ●1949年福岡県生まれ。多摩美術大学グラフィック・デザイン科卒業後、CBSソニーに入社。デザイン室勤務を経て、80年に独立。94年「ジーズデイズ」を設立。音楽/映像ソフトのパッケージ、広告、書籍装幀など、多岐に渡る分野のアートディレクションを手がける。また『DINOPIX』『identifier』など、自身によるデジタル写真集を出版

http://www.thesedays.co.jp/




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