さまざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はグラフィック・デザイナーの金松滋さん(metamo)を取材し、今日までの足跡をたどります。
第1話 漫画・アニメに魅入られて
港区西麻布の仕事部屋にて、金松滋さん
ストーリー漫画家になりたかった少年時代
──小さい頃はどのような子供でした?
金松●生まれが錦糸町で、基本的に下町育ちなんです。いまは大きい公園になってしまったけれど、家のうしろに木倉(木を材木問屋に売る前に置いておく溜池)があって。東京で育つと普通はゲームとかで遊ぶことが多いかもしれませんが、僕の場合は田舎っぽい環境で育ったので、虫とか自然と戯れていたことが多かったですね。
──昭和の面影も?
金松●ええ。年少の頃ですが、まだチンチン電車が走っていたり、バスが10円だったり。
──得意なものは?
金松●物心ついた頃から、やっぱり絵は好きでしたね。父が「自分は絵がうまい」と吹聴していて「その血筋を継いでいる」と。あと3歳上に兄がいるのですが、やっぱり漫画とか模写しても年齢の差で圧倒的にうまいんですね。それが悔しくて、一生懸命うまくなろうとしていたのは記憶にあります。
──芸術的な環境はあったのですか?
金松●特別ないです。でも、家が印刷屋をやっていたんですね。印刷といっても軽印刷で町の印刷屋さんなのですが、よく活字やタイプライターを見たりしてました。
──インクの匂いとかも記憶に?
金松●そうですね。だから、いまでも印刷所へ刷り出しの立ち会いに行くとインクの匂いが懐かしい。現場の人に「印刷屋の息子なんです」と言うと、ナメてかかれないなって感じで、そういうプレッシャーのかけ方もあって(笑)。
──自分が絵がうまいと自覚したのは?
金松●小学生のときにパンダが上野動物園に来て、みんなで写生に行ったときですね。描いた絵を壁に張り出すじゃないですか。それを眺めて、自分の絵は立体感があると思ったんです。他の子たちは空間を平面的にとらえているんだけど、自分の絵は奥行きみたいなものがある、と。今、考えると子供の絵だから大したことないんだけど、並べたときに何か違う……という気持ちがあって。
──絵のほかに興味は?
金松●剣道を習ってました。でも、休みの日を剣道に費やすのが子供心にイヤで、小学校4〜5年でドロップアウトしちゃった。それをきっかけに、本格的に絵の方向にいきましたね。小学校3年ぐらいから近所に絵画の塾があって、すでに石膏デッサンとかやっていたんです。その後、絵画というか漫画やアニメに興味が向いて。マジンガーZやらデビルマンやらを模写していたら、たまたまアニメブームが到来したんです。
──宇宙戦艦ヤマトとか。
金松●ええ。それから銀河鉄道999、ガンダムといったアニメの物語に感動するという体験があって。幼心に「作る側に回りたい」と思ったのが、そのへんのアニメを見てからですね。だから、卒業文集とかに「ストーリー漫画家になりたい」って書いてました。ギャグじゃなくてストーリーなんですよ(笑)。物語を見て感動したものを人にも伝えたいっていうのがあったのだと思います。
金松●生まれが錦糸町で、基本的に下町育ちなんです。いまは大きい公園になってしまったけれど、家のうしろに木倉(木を材木問屋に売る前に置いておく溜池)があって。東京で育つと普通はゲームとかで遊ぶことが多いかもしれませんが、僕の場合は田舎っぽい環境で育ったので、虫とか自然と戯れていたことが多かったですね。
──昭和の面影も?
金松●ええ。年少の頃ですが、まだチンチン電車が走っていたり、バスが10円だったり。
──得意なものは?
金松●物心ついた頃から、やっぱり絵は好きでしたね。父が「自分は絵がうまい」と吹聴していて「その血筋を継いでいる」と。あと3歳上に兄がいるのですが、やっぱり漫画とか模写しても年齢の差で圧倒的にうまいんですね。それが悔しくて、一生懸命うまくなろうとしていたのは記憶にあります。
──芸術的な環境はあったのですか?
金松●特別ないです。でも、家が印刷屋をやっていたんですね。印刷といっても軽印刷で町の印刷屋さんなのですが、よく活字やタイプライターを見たりしてました。
──インクの匂いとかも記憶に?
金松●そうですね。だから、いまでも印刷所へ刷り出しの立ち会いに行くとインクの匂いが懐かしい。現場の人に「印刷屋の息子なんです」と言うと、ナメてかかれないなって感じで、そういうプレッシャーのかけ方もあって(笑)。
──自分が絵がうまいと自覚したのは?
金松●小学生のときにパンダが上野動物園に来て、みんなで写生に行ったときですね。描いた絵を壁に張り出すじゃないですか。それを眺めて、自分の絵は立体感があると思ったんです。他の子たちは空間を平面的にとらえているんだけど、自分の絵は奥行きみたいなものがある、と。今、考えると子供の絵だから大したことないんだけど、並べたときに何か違う……という気持ちがあって。
──絵のほかに興味は?
金松●剣道を習ってました。でも、休みの日を剣道に費やすのが子供心にイヤで、小学校4〜5年でドロップアウトしちゃった。それをきっかけに、本格的に絵の方向にいきましたね。小学校3年ぐらいから近所に絵画の塾があって、すでに石膏デッサンとかやっていたんです。その後、絵画というか漫画やアニメに興味が向いて。マジンガーZやらデビルマンやらを模写していたら、たまたまアニメブームが到来したんです。
──宇宙戦艦ヤマトとか。
金松●ええ。それから銀河鉄道999、ガンダムといったアニメの物語に感動するという体験があって。幼心に「作る側に回りたい」と思ったのが、そのへんのアニメを見てからですね。だから、卒業文集とかに「ストーリー漫画家になりたい」って書いてました。ギャグじゃなくてストーリーなんですよ(笑)。物語を見て感動したものを人にも伝えたいっていうのがあったのだと思います。
金松さんの仕事より
上段「クローズZERO」cd+ad:金松滋/ad+d:冨岡祥雄/p:横浪修/c:荘司大/2007年/東宝
下段「ロマンアルバム 崖の上のポニョ」ad:金松滋/d:岩城佑介、米田龍平/p:杉田知洋江/2008年/徳間書店より絶賛発売中!
都立工芸高校デザイン科に進学
──中学校は?
金松●猛烈に作る方に行きたいと思って、親にせがんでセルを描くセットを買ってもらって見よう見まねで描いてました。アニメ部にも入ってたんです。本当は蝶の脱皮とか、理科の実験的なことをやるためのクラブだったんですけど、勝手に爆発シーンとか光り物の8ミリを撮って文化祭で流したり。あと『アニメージュ』みたいな情報誌を読んで、作品のスタッフ・クレジットを見るようになりましたね。このアニメーターの人の動きはかっこいいとか、タイミングが他と違って面白いとか、段々解析するようになって。
──高校の進学先は?
金松●そういう状態でしたから、単純に絵を描ける環境に行きたいと思って、都立工芸高校のデザイン科を志望しました。普通の親なら普通の学校に行って就職したほうがお得って言いますが、どうも勉強そのものが好きではなくて……そのぶん、いま苦労してますが(笑)。
──受験は普通校よりも大変でした?
金松●その当時、5倍近くの倍率ありましたね。偏差値が特別高いわけではないけど、内申とかは都立でも難しい部類でしたね。でも、実技の試験はなかった。他に本郷高校のデザイン科も受けてて、そっちはデッサンとか実技がありましたが。どちらも受かったのですが、学費の面で都立のほうが安いので工芸高校に進んだんです。
──授業のカリキュラムは?
金松●普通学科が段々少なくなるのですが、絵の他にグラフィック、インダストリアル両方を広く浅くという感じ。その当時はコンピュータがないので、ポスターカラーを使ったり、レタリングしたり、カラス口の使い方を学んだり。でも正直、デザインにはまったく興味なかった。絵を描く環境に身を置きたいと志望したわけですから。当然、漫画研究会とか映画研究会があるので、そういうところで活動してましたね。で、自分たちも自主アニメを作ろうとして、どうやってお金を集めて、生徒会から認可を受けて上映するか……今の仕事に通ずるプロデューサー的な真似事は結構してましたね。
──成績はどうでした?
金松●入学した頃は上から数えたほうが早かったのですが、卒業するときは下から数えたほうが早かった(笑)。
──高校卒業後のヴィジョンは?
金松●実は高校時代にアニメーターのバイトもしてて、もう現場にいたんです。ある程度やってたんですけど、夏休みにずっと描いていたら腱鞘炎になってしまった。それまで自分は絵がうまいという自負があったじゃないですか。でも、アニメーション・プロダクションだと絵がうまい奴ばかりなんですよね。普通は幼稚園、小学校、中学校……と進むたび、絵がうまい奴が増えていくのに気づくんだけど、僕の場合は全然気づかなくて。バイトしていると年齢一緒でうまい人、結構いるんです。15〜6歳ぐらいで、いま現役で活躍しているような方々。そういう人たちの仕事を見て、自分のレベルとその程度で腱鞘炎になるなら、こっちの道は諦めたほうがいいかなと思ってしまったんです。
金松●猛烈に作る方に行きたいと思って、親にせがんでセルを描くセットを買ってもらって見よう見まねで描いてました。アニメ部にも入ってたんです。本当は蝶の脱皮とか、理科の実験的なことをやるためのクラブだったんですけど、勝手に爆発シーンとか光り物の8ミリを撮って文化祭で流したり。あと『アニメージュ』みたいな情報誌を読んで、作品のスタッフ・クレジットを見るようになりましたね。このアニメーターの人の動きはかっこいいとか、タイミングが他と違って面白いとか、段々解析するようになって。
──高校の進学先は?
金松●そういう状態でしたから、単純に絵を描ける環境に行きたいと思って、都立工芸高校のデザイン科を志望しました。普通の親なら普通の学校に行って就職したほうがお得って言いますが、どうも勉強そのものが好きではなくて……そのぶん、いま苦労してますが(笑)。
──受験は普通校よりも大変でした?
金松●その当時、5倍近くの倍率ありましたね。偏差値が特別高いわけではないけど、内申とかは都立でも難しい部類でしたね。でも、実技の試験はなかった。他に本郷高校のデザイン科も受けてて、そっちはデッサンとか実技がありましたが。どちらも受かったのですが、学費の面で都立のほうが安いので工芸高校に進んだんです。
──授業のカリキュラムは?
金松●普通学科が段々少なくなるのですが、絵の他にグラフィック、インダストリアル両方を広く浅くという感じ。その当時はコンピュータがないので、ポスターカラーを使ったり、レタリングしたり、カラス口の使い方を学んだり。でも正直、デザインにはまったく興味なかった。絵を描く環境に身を置きたいと志望したわけですから。当然、漫画研究会とか映画研究会があるので、そういうところで活動してましたね。で、自分たちも自主アニメを作ろうとして、どうやってお金を集めて、生徒会から認可を受けて上映するか……今の仕事に通ずるプロデューサー的な真似事は結構してましたね。
──成績はどうでした?
金松●入学した頃は上から数えたほうが早かったのですが、卒業するときは下から数えたほうが早かった(笑)。
──高校卒業後のヴィジョンは?
金松●実は高校時代にアニメーターのバイトもしてて、もう現場にいたんです。ある程度やってたんですけど、夏休みにずっと描いていたら腱鞘炎になってしまった。それまで自分は絵がうまいという自負があったじゃないですか。でも、アニメーション・プロダクションだと絵がうまい奴ばかりなんですよね。普通は幼稚園、小学校、中学校……と進むたび、絵がうまい奴が増えていくのに気づくんだけど、僕の場合は全然気づかなくて。バイトしていると年齢一緒でうまい人、結構いるんです。15〜6歳ぐらいで、いま現役で活躍しているような方々。そういう人たちの仕事を見て、自分のレベルとその程度で腱鞘炎になるなら、こっちの道は諦めたほうがいいかなと思ってしまったんです。
次週、第2話は「就職と現実」を掲載します。
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
|
[プロフィール] かねまつ・しげる●1967年東京都生まれ。都立工芸高校デザイン科卒業後、デザイン会社数社での勤務を経た1995年、友人とともに「オーファイヴ・リミックス」を立ち上げ独立。2002年、現在主宰する「メタモ」を設立し、クリエイティブ・ディレクターとして映画宣伝、広告、書籍装幀など活動中。 |