第1話 洋楽三昧だった学生時代 | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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様々なジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回は秋田和徳さんを取材し、アートディレクターとして活躍する今日までの足跡をたどりま


第1話 洋楽三昧だった学生時代



千代田区神田神保町のオフィスにて、秋田和徳さん

千代田区神田神保町のオフィスにて、秋田和徳さん

──小さい頃はどのような子供でした?

秋田●結構、運動好きでした。あとは絵が得意でしたね。賞状とかよくもらってました。

──いまに至るルーツはその頃に?

秋田●小学校5年ぐらいから洋楽に興味を持って、まだレコードは買えなかったからラジオを聴いてました。あと父親が美術展に行くのが好きで、小学校3年から岡山なんですが、近所のデパートはもちろん、倉敷に大原美術館というところがあって、そこに何度も連れて行かれました。全国的にも有名な美術館なんですが、当時は当たり前のようにそれを見てましたね。

──お父さんはそういう方面のお仕事を?

秋田●いいえ、全然。銀行員です。母は専業主婦。普通すぎますね。でも父は絵を見たり、写真を撮るのが好きでした。あと骨董や本を集めて、家の中がそういうものであふれていました。子供より、自分の趣味にお金をかけるタイプかな。

──そういう影響も大きかった?

秋田●影響というか血なんですかね。定年してからは絵を描いてましたが。

──子供ながらに、将来どんな職業につきたいという願望はありました?

秋田●小学生の時はスポーツ選手かな。いまじゃ考えられないですけど。でも何かしら、音楽か美術関係の仕事につきたいなと思い描いていました。

──どんな音楽が好きだったんですか?

秋田●中学くらいまではヒット・チャートですね。全米トップ40とかの。洋楽ばっかり、ロックでもソウルでもポップスでも……流行っている音楽はジャンルに関係なく、なんでも聴いていたんです。

──成績はよかったですか?

秋田●悪くはなかったですね。あんまり勉強はしなかったけど。高校は一応進学校でしたし。

──クラブとかは?

秋田●中学までは体育会系でしたが、その後はもうロック一辺倒。自分でもバンド組んだりしてましたが、それはお遊び程度に。

──音楽関係の仕事につきたいというのは、ミュージシャンの夢も?

秋田●まあ、それは諦めてました。大学のときに。バンドやっているとスタジオ代とか、お金がかかるんですよ。で、人の曲を聴いたときにアレンジとかが気になって聴き方が変わってしまう。純粋に音楽を楽しめないし、ようはとにかくたくさんレコードを買いたいわけです。スタジオを借りても、自分のしょぼい演奏とかアホらしくなって。あとは根本的な能力の問題。たとえばスティーリー・ダンを好きで聴いてるにも関わらず、アレンジの構造が理解できないんですよ。自分で想像できない。想像できないってことは才能がないんだなと、早くに諦めました。

──高校時代は?

秋田●入ったらさらに勉強しなくなって、ロックを聴きまくってましたね。あと中学のときに地元ラジオ局で洋楽ベスト20みたいな番組があって、よくリクエストカードを書いてましたね。まあ絵も得意だし、レタリングもカセット・テープの手描きバンド・ロゴで鍛えてるから、100%読まれたんです。で、ときどきレコードも当てました(笑)。これをやったら当たるだろうなと、なんとなくわかってたんです。狙って送ってましたね。わざと「これは絶対受ける」と思って。

──美術関係に進もうと思ったのは?

秋田●その頃です。中学の時も美術の成績はよかったので、そっちに行けばよかったのですが、デザイン科というのが工業高校にひとつしかなかったので、なんとなくそこまで思い切りがつかなくて……とりあえず普通科に進んだんです。いま思うとデザイン科に行けばよかったなと思うのですが。

──じゃあ、高校在学中からデッサンの勉強なども?

秋田●やっぱり芸術系の大学に進学するしかないなと思いましたが、何も知らないんですよ。デッサンの勉強をしなくてはならないということも知らなくて。高三の夏休みに初めて、そういうことを勉強しなくちゃならないということを知って、慌てて突貫でしたね。

──予備校に通ったんですか?

秋田●学校ではなくて、近所に版画家の方がいて、その方が教えられてて。少人数の私塾みたいなところですね。デッサン、色彩と、美大を受験するために必要な基礎知識をそこで学んで。でも、にわかでした。

──進学先は?

秋田●大阪芸術大学のデザイン科です。

──大学では友人関係も広がって?

秋田●僕の周りはミュージシャン志望だらけでしたね。悪く言うと学校に遊びに来ているような人も多かったかな。遊びと言うか、世間に対する言い訳みたいなモラトリアム。4年間は好きなことができると。でも、刺激的な人が多かったですね。

──どのような勉強が主でした?

秋田●様々なタイプの課題を数多くこなす中で、自分に何が向いているのか、そのスタイルを見つけ出す機会を与えられたと思うんですけど……それはつまり自分自身の問題なんで、どこの学校に行こうが、あるいはどこにも行くまいが関係ないですけどね。まあ、社会に出て直接役に立つような勉強はしなかったと思います。写植も色指定もあとから覚えましたからね。当時は授業でコンピューターを使うなんてないですから、今とはまったく状況が違うと思うんですけど。

──でもデザイン科を選んだのは、もうデザイナーになろうと?

秋田●そうですね。そこしか道がないと思ってました。とはいえ美術系の本は買っても、デザインに関する本は手に取ることすら稀でしたし、就職するまでアート・ディレクターの意味もわからなくて。よく「なんとかさんに憧れて」とか言うじゃないですか。僕、ほとんど知らなかったんですよ。

──音楽に近い仕事を考えたらデザイナーが近道だと。

秋田●そうですね。音楽と言うよりレコード・ジャケット。だからと言って、それに近づくにはどうしたらいいか、見当もつかなくて。いま思うと、どうしてもなりたいっていう意識があまりにも低すぎたんですね。最初から自分には無理って思ってたのかもしれません。このバイタリティの欠如が、のちのちにまで影響するんですよ。


Various Artists『Trans Craze』チラシ雑誌広告のためのアートワーク

Strawberry Fields『ALIBI』CDStrawberry Fields『Strawberry Fields Forever』CD BOX黒夢『短命の百合達』VIDEO

秋田さんの仕事より

上左/Various Artists『Trans Craze』チラシ(1989年)
「はじめて手がけたCDジャケットです。ジャケット自体はあんまり出来がよろしくないのでチラシを(笑)。不出来の原因は経験不足ですね」

上右/雑誌広告のためのアートワーク(1992年)
「月刊誌の広告用に作りました。洋楽の広告というのは与えられたアーティスト写真を、ただレイアウトするだけでもよかったはずです。でも、とにかく洋楽に関わる仕事がしたかったので、たとえ広告でも全力でやってましたね」

下左/Strawberry Fields『ALIBI』CD(1992年)
「古い柱時計を解体した木片を枠に、時間をかけていろんな素材をB2パネルに貼り倒しました。確か、この時にB2ポスターも作りましたが、それがまさに原寸でした」

下中/Strawberry Fields『Strawberry Fields Forever』CD BOX(1993年)
下右/黒夢『短命の百合達』VIDEO(1994年)
「このふたつはコーネルの影響ですね、あからさまに(笑)。黒夢は、もともとジャケットの表1用に作ったのですが、不採用ということで、中に封入されるブックレットに収まりました」

「これらすべてに共通するのは、デザインというよりも、完全にアートワークに重きを置いている、ということですね。学生時代の課題の延長というか(笑)。学生の課題って、分担作業なんていうのはあり得ないわけで、写真だろうとイラストだろうとすべて自力でしたからね。当時、いろんなスタイルを模索していく中で、もっとも自分の嗜好性に合致したのがこれだったんです。これしかなかったというか……まだまだ、内なるアート・ディレクションにとどまってる頃です」



次回、第2話は「会社員は向いていない」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)


秋田和徳さん

[プロフィール]

あきた・かずのり●1965年大阪府生まれ。大阪芸術大学デザイン学科卒業後、広告デザイン会社勤務等を経て、94年に独立。音楽ソフトのパッケージを中心に、広告、雑誌、単行本などを手がけている




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