押し出しの強いビジュアル&個性的なタイポグラフィで、さまざまな音楽CDのジャケットを飾る錦瓊(きんけい)のアートワーク。ひと癖もふた癖もあるグラフィックと同様に、主宰する打越俊明さんの「デザイン道」はティピカルなものではない。デザイナー志望者に向けては特例かもしれないが、その数奇な足跡を振り返ってみよう。
第1話 のらりくらりのデザイン事始め
パティシエ、イギリス留学、音楽業界……
――デザイナーを目指したきっかけは何だったのですか?
打越●そもそも、全然違う仕事をしていたんです。高校時代にハードコアのバンドをやってまして、音楽で食べていきたいと思ってました。でも、親に「まともな仕事をしろ」と言われて、卒業後「マキシム・ド・パリ」に就職したんです。そこでパティシエをやりながらバンドを続けていたのですが。
――ケーキを作ってたんですか?
打越●はい(笑)。でも、半年でそういう生活に耐えられなくなって、バンドのほうも行き詰まってしまったんです。しかも、バンドの連中がアメリカに行くと言い出したから、じゃあ俺は「イギリスに行くぜ!」って。そこで、ニューキャッスルにある「ユニバーシティ・オブ・ニューキャッスルアポンタイン」という学校に留学したんです。
――そこでは何を専攻して?
打越●英語を勉強して、無謀にもBA(英国学士院)を目指したのですが……すぐよその学校に転校して辞めちゃいました。向こうでも「ドラム募集中」のバンドに参加して、親のスネをかじって遊んでたんです。ちなみにニューキャッスルって、イギリスにおける“日本の青森”みたいなところで訛りが強いんですよ。何を喋ってるのか、全然わからない。しかも寒いから口が開かなくて、みんな言葉が短いし(笑)。
――学校を辞めて、どうしたのですか?
打越●在学中、知り合いの音楽事務所の社長がロンドン出張に来たとき、会いに行ったことがあったんです。彼の訪問先がやはり同業で、ロンドンに支社を持ってて。結局、そこに就職することになって、日本のミュージシャンがレコーディングするときの通訳兼コーディネーターの仕事を始めました。音楽業界のことは、高校生のときに自由が丘のバーでバーテンをやっていた頃、関係者がよく来ていたので、だいたい雰囲気はわかっていたんです。生態的に「スゲエ人たちだなって」(笑)。
――なんか、転々としてますね……。
打越●のらりくらりしたもんですよ。日本に帰国してからは事務所の所属ミュージシャンのマネージャーをやっていたのですが、その頃から漠然と「デザインやってみたい」と思うようになったんです。というのも、オフィスの隣でアートディレクターの上原則博さんが事務所を構えてて、彼の仕事を眺めているうちに手伝うようになって。で、自分が担当しているミュージシャンのフライヤーとかを作り始めたんです。
打越●そもそも、全然違う仕事をしていたんです。高校時代にハードコアのバンドをやってまして、音楽で食べていきたいと思ってました。でも、親に「まともな仕事をしろ」と言われて、卒業後「マキシム・ド・パリ」に就職したんです。そこでパティシエをやりながらバンドを続けていたのですが。
――ケーキを作ってたんですか?
打越●はい(笑)。でも、半年でそういう生活に耐えられなくなって、バンドのほうも行き詰まってしまったんです。しかも、バンドの連中がアメリカに行くと言い出したから、じゃあ俺は「イギリスに行くぜ!」って。そこで、ニューキャッスルにある「ユニバーシティ・オブ・ニューキャッスルアポンタイン」という学校に留学したんです。
――そこでは何を専攻して?
打越●英語を勉強して、無謀にもBA(英国学士院)を目指したのですが……すぐよその学校に転校して辞めちゃいました。向こうでも「ドラム募集中」のバンドに参加して、親のスネをかじって遊んでたんです。ちなみにニューキャッスルって、イギリスにおける“日本の青森”みたいなところで訛りが強いんですよ。何を喋ってるのか、全然わからない。しかも寒いから口が開かなくて、みんな言葉が短いし(笑)。
――学校を辞めて、どうしたのですか?
打越●在学中、知り合いの音楽事務所の社長がロンドン出張に来たとき、会いに行ったことがあったんです。彼の訪問先がやはり同業で、ロンドンに支社を持ってて。結局、そこに就職することになって、日本のミュージシャンがレコーディングするときの通訳兼コーディネーターの仕事を始めました。音楽業界のことは、高校生のときに自由が丘のバーでバーテンをやっていた頃、関係者がよく来ていたので、だいたい雰囲気はわかっていたんです。生態的に「スゲエ人たちだなって」(笑)。
――なんか、転々としてますね……。
打越●のらりくらりしたもんですよ。日本に帰国してからは事務所の所属ミュージシャンのマネージャーをやっていたのですが、その頃から漠然と「デザインやってみたい」と思うようになったんです。というのも、オフィスの隣でアートディレクターの上原則博さんが事務所を構えてて、彼の仕事を眺めているうちに手伝うようになって。で、自分が担当しているミュージシャンのフライヤーとかを作り始めたんです。
コンピュータごと抱えてのプレゼン
――もともとグラフィックには興味はがあったのですか?
打越●子供の頃から映画のポスターやチラシが好きで、よく集めてました。そういう趣味から「デザインっていいな」という気持ちは、心のどこかにあったんですね。……考えてみると、いまやってる仕事もレイアウトの基本は映画のポスターと同じような気分かもしれませんね。それと、文字をいろいろ加工して遊ぶのが好きでしたね。シャドウをつけたり、立体にしたり。
――それは「錦瓊」の原点かもしれないですね。
打越●でも当時は、デザイナーになるには「やっぱり専門的な学校を出ないと無理なんだろう」と勝手に決めつけていたのですが。
――しかし始めてみたら、そうでもなかった……と?
打越●はい。最初は手書きや彫刻だったりアナログでしたが、そうこうしているうちに弟子入りした上原さんがMacを購入したんです。まだIIciとかの時代でしたが、作業を見ていたら自分でもできるようになって「これは面白いな」と。
チャットモンチー『耳鳴り』(キューンレコード)
打越氏がジャケット・デザインを手がけたばかり、
徳島出身のガールズ3ピース・バンドによる1stアルバム。
キュートな装いながら、オルタナティブな音楽性が混同するサウンド像を
人物シルエット(エンボス)で表現している
――ようは、仕事として捉えないでDTPデザインが始まった?
打越●そうですね。身の回りのものを作っていきながら、どんどんのめり込んでいった感じ。そのうち「いけるかもしれない」と思うようになったんです。上原さんの事務所はいろいろあって3カ月で出ることになったのですが……すぐ自分でMacを買って、知人の住居兼事務所に転がり込んで1人で作業を始めました。
――デザイナーとして、初めて手がけた仕事らしい仕事は?
打越●いまタレントとして活躍しているYOUさんのソロ・シングル。伝手があったレコード会社に「デザイン始めました」と営業したんです。でも、実はラフの出し方とかプレゼンの方法を全然知らなかったんですよ。プリンタも持ってなかったから、コンピュータごと抱えて行って「こんな感じ、どうですか?」って(笑)。
――すごいプレゼンですね。
打越●その直後でしたね。出力屋の存在を知ったのは(笑)。
――でも、それが通ったのですね。
打越●ええ。そこで多分、自信を持ったのだと思います。それまで人から誉められるような仕事をあまりしたことがなかったから、急に「オッ、コレは!」と手応えを感じ始めたんです。
次週、第2話は「仕事が仕事を生む」についてうかがいます。
(取材・文:増渕俊之 写真:栗栖誠紀)
打越●そうですね。身の回りのものを作っていきながら、どんどんのめり込んでいった感じ。そのうち「いけるかもしれない」と思うようになったんです。上原さんの事務所はいろいろあって3カ月で出ることになったのですが……すぐ自分でMacを買って、知人の住居兼事務所に転がり込んで1人で作業を始めました。
――デザイナーとして、初めて手がけた仕事らしい仕事は?
打越●いまタレントとして活躍しているYOUさんのソロ・シングル。伝手があったレコード会社に「デザイン始めました」と営業したんです。でも、実はラフの出し方とかプレゼンの方法を全然知らなかったんですよ。プリンタも持ってなかったから、コンピュータごと抱えて行って「こんな感じ、どうですか?」って(笑)。
――すごいプレゼンですね。
打越●その直後でしたね。出力屋の存在を知ったのは(笑)。
――でも、それが通ったのですね。
打越●ええ。そこで多分、自信を持ったのだと思います。それまで人から誉められるような仕事をあまりしたことがなかったから、急に「オッ、コレは!」と手応えを感じ始めたんです。
次週、第2話は「仕事が仕事を生む」についてうかがいます。
(取材・文:増渕俊之 写真:栗栖誠紀)
[プロフィール] うちこし・としあき●1969年東京都生まれ。高校卒業後、洋食店に就職。その後、イギリス留学、音楽事務所勤務、デザイナー・アシスタントを経て、24 歳で独立。デザイン事務所King Cay Lab.(後に「錦瓊」と表記)を設立し、数多くの音楽CDジャケットなどを手がける。現在、デザイン業と同時にアート・プロジェクト 「MIRRORBOWLER」の一員として活動中。 |