映画『ブレードランナー』に登場する絵画を美術の専門家が分析して、『ブレードランナー』の謎に迫ります。『ブレードランナー』編は全三回でお届けします。第一回目のテーマは〈ブレードランナーの真意を解き明かす絵画〉。*本記事は、映画の中に登場する西洋絵画(=名画)に注目して、そこから映画の真の意味を解き明かす新感覚の映画レビュー連載です。
プロローグ──映画評論家は分かってくれない!?
プロローグ
名画は、名画を映し出します。「映画」も「絵画」も、ともに「名画」と呼ばれてきました。実は、その映画(=名画)の中で、西洋絵画(=名画)が登場することが意外に多いのです。画家の人生や美術館が舞台となっている映画はもちろんですが、そうでなくても、さりげなく絵画が飾られていたり、絵とそっくりの場面が登場したりします。
名監督になればなるほど、単なる背景美術としてではなく、その映画の意図を伝えるべく、何らかのメッセージを込めて名画を登場させていたのです。しかし、映画評論の多くは、監督や俳優、脚本や映像、ロケーションや音楽については詳しく評論しても、絵画については、あまり語られていませんでした。
そこで、西洋絵画(名画)によって、逆に映画(名画)に光をあて、真の意味を解き明かそうというのが、この企画なのです。もちろん、絵画によって解き明かす過程で、ストーリーや結末を話すことになるので、ネタバレ注意でお願いします。できれば、映画を見てから読んでいただければ、目から鱗となるはずです。
ちょっと初回から大風呂敷を広げてしまいましたが、どんなラインナップになるかは乞うご期待! 栄えある第1回を飾るのは、あのSF映画の金字塔『ブレードランナー』です。
平松洋[美術評論家/フリーキュレーター]
掲載作品概要『ブレードランナー』
1982年公開、SF映画の金字塔『ブレードランナー』。舞台は酸性雨が降りしきる廃退した2019年のLA。人間を殺した凶悪なレプリカント(=アンドロイド)を、レプリカント専門の賞金稼ぎ(=ブレードランナー)のデッカードが追うが……。
連載一回目を『ブレードランナー』にした理由
そもそも、何故この連載企画を『ブレードランナー』から始めたかというと、掲載開始の年月日を意識したからです。実は、1982年公開のこの映画の舞台設定自体がなんと2019年11月だったのです。公開された時には、遠い未来だと思われていた37年後の世界が、今や現実に到来してしまったのです。
2019年が舞台のSF作品といえば、大友克洋の漫画『AKIRA』が有名です。奇しくも2020年の東京オリンピック開催を前に再開発が進む2019年の「ネオ東京」を舞台としていたことで、脚光を浴びたのは記憶に新しいでしょう。
この連載は1982年の年末から始まったもので、そのちょうど半年前に『ブレードランナー』が日本で公開されています。その影響関係はともかく、両者ともに1982年の世界から同じ37年後の現在の世界を描いていたのです。
では、この映画に絵画がでてくるかというと、残念ながら明確な形で絵画が登場するわけではありません。しかし、原作であるフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』には、ムンクの『叫び』と『思春期』が登場します。
『叫び』には、クレヨンやテンペラ、パステルなど4つのバージョンのほか、リトグラフもありますが、小説では油彩作とされているので、油彩が使われている1910年作のオスロ市立ムンク美術館の作品で、奇しくも2019年の1月20日まで東京で展示されていたものでしょうか[*1]。
多分、ディックが想定していたのは、Wikipediaや多くのカタログで油彩と勘違いされている、最も有名な1893年に制作されたオスロ国立美術館のものだと思います[*2]。いずれにしても、作者のディックは、ムンクの『叫び』に、アンドロイドの不安を託すだけでなく、撃たれて殺されていくアンドロイドの絶叫をオーヴァーラップさせています。
原作のテーマを読み解く“絵画”の存在
一方、『思春期』は、ムンクが1885年から1886年にかけて制作したものが火災で焼失し、1894年から1895年にかけて、改めて描き直された油彩画です[*3]。初潮を迎えた思春期の少女の不安を描いたとされ、『叫び』とともに、ムンクの不安をテーマにした絵画の代表作です。小説では『叫び』のように絶叫しながら死んでいくオペラ歌手のアンドロイドが気に入った作品として、主人公のデッカードにその複製を買ってほしいと頼みます。
実は、この2枚の絵が描かれた同じ時期の1894年にムンクの妹ラウラが精神病院に入院しています。今でいう統合失調症(スキゾフレニア)で、この病状こそが、原作の中では重要なキーワードとなっていたのです。つまり、映画にも出てくるアンドロイドと人間を区別するフォークト=カンプフ性格特性テストが、統合失調症患者をもアンドロイドと間違えて診断する可能性があるというのです。
このテストからするとアンドロイドと統合失調症患者は同類で、アンドロイドのオペラ歌手がわざわざムンクの『思春期』の、それも「複製」を欲しがったのには、深い意味が込められていたのです。人間とそうでないものを分けるものは何か。人間でも不安に陥り、精神を患ったものは人間ではないのか。原作自体が、その主題である、人間存在とは何か、そして、人間存在の耐え難い不安を、ムンクの絵画によって象徴させていたのです。
原作小説と同様に映画も絵画の影響を受けているのか?
一方、原作とは違って、映画自体には絵画作品は登場しないのですが、西洋絵画の影響があることは、すでに多くの人々から指摘されてきました。なんといっても、監督のリドリー・スコットは、ウェスト・ハートリプール美術大学(現ノーザン美術学校)でデザインを学び、王立美術大学に進学した美術畑の人で、その後、BBCで舞台美術のデザイナーとしてキャリアをスタートさせています。
つまり、美術に関しては、本人自身「私は美術の仕事が好きだから、この映画でも指導した」と言うように、かなりのこだわりをもっていたことはその映像からもあきらかです。
レプリカントとは何か?ヒントは絵画にあり
特に、西洋絵画の知識のある人にはピンとくるのが、レプリカントが持っていた写真に登場する「鏡」です(*下図イラスト)。この写真は、レプリカントのひとり、リオンが潜伏していたホテルで見つけたものです。
(ちなみに、このホテルの名前は、フンターヴァッサーで、英語の「ハンター」とドイツ語の「水」の造語で、“水の探索者”とでも訳せます。多分、オーストリアの芸術家で建築家でもあったフンデルトヴァッサーの名前に掛けられているのですが、まさに、このホテルのバスタブの中の水の流れた跡を探ることで、証拠となる蛇のウロコとバスタオルの中から例の写真が発見されるのです)
この写真は、3D写真になっているという設定で、デッカードは、光学分析機である「エスパー・マシン」にかけて分析します。写真に映っている凸面鏡の中を拡大し、角度を変えて精査することで、肉眼では見えなかったレプリカントの女、ゾーラの姿を映し出します。
多分、西洋美術史を学んだ人の多くが、この場面を見て、初期フランドル派の画家ヤン・ファン・エイクが1434年に描いた『アルノルフィーニ夫妻の肖像』[*4]を思い浮かべたはずです。なぜなら、この絵の真ん中には、同じような凸面鏡が描かれているからです。
美術史家のエルヴィン・パノフスキーは、この絵が描かれた500周年を記念して発表した論文の中で、絵による「婚姻証明書」説を打ち出しました。絵に登場する「寝台」「産婦の守護聖人マルガレータ」「花嫁を象徴する一本だけ灯った蝋燭」「忠誠を意味する犬」「神聖な場での脱靴」など、すべてが婚姻を象徴しているというのです。
さらに、凸面鏡の上の壁面には「ヤン・ファン・エイクここに在りき」の銘文が描かれています。では、ここに在るはずの彼の姿はどこなのでしょう。実は、それが、凸面鏡の中に描かれていたのです[*5]。
夫妻の後ろ姿越しにみえる2人の人物のうち、青い衣装を着た人物が、この絵を描いたヤン・ファン・エイクとされ、彼は、二人の婚姻を見届ける立会人の役割を果たしているというのがパノフスキーの説でした。
描かれている夫妻は、当時は、ジョヴァンニ・ディ・アリーゴ・アルノルフィーニとその妻だとされてきましたが、彼らの婚姻が画家の死後6年後だと判明。今では、ファーストネームが同じ従兄弟ジョヴァンニ・ディ・ニコラ・アルノルフィーニ夫妻説が有力で、ファン・エイク夫妻説も浮上しています。しかし、この絵が現在でいう家族の記念写真で、鏡とともに画家の存在証明が描かれていることは間違いないのです。
映画を解き明かす絵画の中の“鏡”
映画の設定では、レプリカントたちは、安全のため4年の寿命しかなく、幼少期の記憶も、他人の記憶がインプラントされたものでした。しかし、この記憶こそがアイデンティティの基盤であるため、疑似記憶にもかかわらず、幼い頃の家族写真にこだわり、自らの存在証明としての写真を撮っては、大事に携行していたのです。
ヤン・ファン・エイクの絵画が婚姻の証明だとすると、まさに家族誕生の最初の記念写真であり、レプリカントが欲しがっている、アイデンティティを証明するための家族写真そのものだったのです。しかも、そこに描かれた凸面鏡には、映画と同じく、重要な人物がそこにいたことを示す、存在証明としての画像が写し込まれていたのです。
しかし、よく見ると、映画と絵画では、凸面鏡の形態が違っています。ファン・エイクの鏡には、周りにギザギザがあります。鏡の枠の周りは、10個のメダイヨンで飾られ、ここには、キリストの受難から復活までの10の場面が描かれていたのです。多分、地球に舞い降りた堕天使ともいえる死すべき運命のレプリカントに、キリストや復活のイメージを与えないよう、このメダイヨンを排除したのでしょう。
このように、映画に再現された絵画が分かると、制作者が込めた意図が明確になってきます。実は、今回取り上げた『ブレードランナー』の写真には、もう一枚の有名な絵が写し込まれていたのです。こちらは多分、誰も気が付いていないかもしれません。写真に込められたもう一枚の絵とは何か? その絵が語るレプリカントの真の姿とは? 次回にご期待ください。
to be continued!
著者プロフィール
- 平松洋
- 美術評論家/フリーキュレーター
- [ひらまつ・ひろし]企業美術館学芸員として若手アーティストの発掘展から国際展まで、様々な美術展を企画。その後、フリーランスとなり、国際展や企画展のキュレーターとして活躍。現在は、執筆活動を中心に、ミュージアム等への企画協力を行っている。主な著書に『名画 絶世の美女』シリーズ、『名画の読み方 怖い絵の謎を解く』、『芸術家たちの臨終図鑑』、『終末の名画』、『ミケランジェロの世界』、『ムンクの世界』、『クリムトの世界』ほか多数。
2019.11.26 Tue2021.09.03 Fri