第1話 絶対、デザイナーになってやろう | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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まざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はアート・ディレクターの駿東宏さんを取材し、今日までの足跡をたどります


第1話 絶対、デザイナーになってやろう



駿東宏さん

神宮前「エスジー」にて、駿東宏さん


日本画、園芸、そして音楽との出会い



──小さい頃って、どんな子供でした?

駿東●母方が代々東京の品川で、家が文房具屋だったんです。4家族ぐらい住んでいる大きな家で、祖先の絵が飾ってある。近所にお稲荷さんがあって、灯籠画を幼稚園の年少から描かされてましたね。

──美術系の家系だったんですか?

駿東●そういうわけでもなくて、単純に絵が好きなんです。おじいさんの兄弟に絵描きがいて、その人は20代で亡くなっちゃう。お袋の兄弟にもいて、その人も若くして亡くなってしまった。だから「絵描きは早死にしちゃう」と言われてきたって。だけど、うちが文房具屋ってこともあるんだけど、やっぱり絵を描くのが好きでしたね。あと、大叔母っていうのがお花の先生で。その叔母さんにくっついて、園芸やったり花の絵を描くのが好きでした。

──環境的には、現在の素養バッチリだったんですね。

駿東●うん。普通はそれで終わってしまうんだけど、幼稚園ぐらいのときかな。近所に90歳ぐらいの日本画の先生がいて、そこに習わされたんですよ。幼稚園なんだから、普通はガッシュ(不透明水彩)なんです。でも、透明水彩で描かされた。塗っては乾かし、塗っては乾かし、薄い色を重ねていく描き方なんですけど、時間がかかるので子供心にイライラしていたのを憶えてます。

──デザイン的なものへの芽生えは?

駿東●中学1年から、デザイナーになろうってことを意識してました。でも中学2年のとき、美術の先生に「お前がなれるわけ、絶対にない」と言われたんですよ。絵心のない人間がデザイナーにはなれない、と。俺もなれなかったんだから、お前がなれるわけないって。

──それ、単なる私怨じゃないですか(笑)。

駿東●そうそう、中学生相手にね(笑)。でも、それで逆に「絶対、デザイナーになってやる」と決心したんですよ。

──部活などは?

駿東●何もやってなかった。あ、園芸部か(笑)。

──ガーデニングですか?

駿東●ええ。小学生からやってましたから。あと、卓球&水泳部っていうのもやったな。でも、のめり込んだことはなかった。その頃って言えば……やっぱり音楽。一緒に住んでいた従兄弟が10歳年上なんですよ。彼が家でずーっとレコードを聴いている。僕の音楽ベースって、そこですね。で、ある日、従兄弟が知らない音楽をけたたましい音で聴いている。それがビートルズだったんですよ。

──そこから趣味も広がって。

駿東●もう、音楽しかなかったですね。とにかく毎日、レコード屋に行ってました。あとはピンボールで遊ぶぐらい。


Factory Girlぼくたちと駐在さんの700日戦争Shinbiyo

駿東さんの最近の仕事から
Factory Girl/映画パンフレット(ファントム・フィルム/AMGエンタテインメント/エイベックス・エンタテインメント)
2008年5月
ぼくたちと駐在さんの700日戦争/映画試写状(ギャガ/コミュニケーションズ)2008年4月
Shinbiyo/雑誌(新美容出版)2008年5月


デザインの原点はファンクラブ会報



──デザイナーになりたいというのは、何がきっかけに?

駿東●やっぱりレコード・ジャケットですね。音楽にのめり込んで、中2〜3年から一人で外タレのライブに行くようになった。毎日、ラジオ番組のリクエストカードを書いて、そのうちパーソナリティから電話がかかってきたり。音楽浸けでした。でも、中学校の頃って、お金ないじゃないですか。だから聴きたいレコードを見つけて、店員に「聴かせて」って頼む。買うのは月に1〜2枚でしたね。高校に入ってからは、もう買い漁ってましたよ。

──高校は普通校だったんですか?

駿東●うん。最初、美術系の専門高校を受けたんです。日大の鶴ケ丘。一応、受かったんだけど、普通高校も受かってたから、なんか直感でそっちに行きました。デザイナーになろうと決めてはいたけど、その仕事が何か、正直よくわかってなかったんだよね。イメージとしては、横尾忠則さんなんですけど。

──外国では?

駿東●ロジャー・ディーン。あの頃は音楽聴きながら、部屋上に絵を描いてましたね。描くものがないから壁に。そりゃ、怒られましたよ。

──高校での生活は?

駿東●高校生になってから、キング・クリムゾンのファンクラブに入りました(笑)。これできっかけになったことがひとつある。

──なんですか?

駿東●会報を全部一人で作ったんですよ。手描きのガリ版で、30Pぐらい。よそのファンクラブに負けたくないと思って、必死だった。写真は手描きでトレースして、文字も全部自分で「アンディ・マンホール」というペンネームで書いてた。

──ハハハ。

駿東●でも、そこがいわば僕の原点ですよ。グラフィック・デザインを初めて、現実的に意識したきっかけでしたね。


次週、第2話は「大学入学、そして中退後……」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)


駿東宏さん

[プロフィール]

すんとう・ひろし●1955年、東京都生まれ。武蔵野美術大学を中退後、サイトウ・マコト氏に師事。日本デザインセンターを経て、ブレックファーストに勤務。85年「スントー事務所」として独立後、佐野元春やオリジナル・ラヴをはじめとする音楽プロダクト、雑誌、映画広告などを手がける。現在「エスジー」(Sunto Graphics)を主宰。

http://www.sg-tokyo.com




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