様々なジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ、今回はコーネリアスをはじめとする数多くのCDジャケット、サッカー番組のオープニング映像のアートディレクションなどを手がける北山雅和さんを取材し、その経歴から現在に至るまでの足跡をたどります 。
第2話 フリッパーズ・ギターの衝撃
北山雅和さん
偶然の“コンテムポラリー”接近
——アシスタントとして渡り歩いた後、コンテムポラリー・プロダクションへ?
北山●いえ。その前に、いくつか掛け持ちしていた中の一社から声がかかって就職しました。社内アートディレクターのアシスタントですね。そこでも勉強と思っていたので、3年は辞めないつもりだったのですが、ちょうど3年目に会社の規模が縮小されることになった。そこで、ついていたアートディレクターが独立して、僕がその後釜に……という打診があったのですが、その頃、すでに音楽関係の仕事をしたいと考えていたんです。
——やはり音楽が好きだったから?
北山●もともと、スタイル・カウンシルとか大好きでした。でも、当時はまだジャケットの仕事が多くあるような時代ではなかった。レコード会社のハウスデザイナーか、奥村靫正さんのような大御所、もしくは当時主流だったビートパンク系のアーティスト寄りの人たちばかりで、あまり見本になるデザイナーがいなかったんですよね。
——ちょうど80年代末ですね。
北山●そこへ、フリッパーズ・ギターが登場したんですよ。スタカン好きにはドンピシャじゃないですか。日本にそういうアーティストが登場するとは思ってもいなかったので、ものすごく衝撃を受けたんです。で、作品を買って調べたら、信藤三雄さんのコンテムポラリーに行き着いて。もう「大変だ!」って感じだった。
——すぐ門を叩いたのですか?
北山●たまたま桑沢の後輩で、モノクローム・セットのライブや渋谷WAVEのセールなどでよく遭遇する音楽の趣味が合う人間がいたんです。で、僕が「いま、何やってるの?」と訊いたら「コンテムポラリーというところに入りまして」と言うんですね。
——偶然ですね。
北山●それから彼とコンタクトをとり始めて、飲みにいくようになった。僕はもう会社を辞めると決めていたから、もしかしたら人員の空きが出るかもしれないと思って様子をうかがっていたんです。で、ある日、彼に電話をかけたらたまたま信藤さんが隣にいて、経緯を説明してもらったら「遊びにおいでよ」と。
——ちょうど空きがあったのですか?
北山●ええ。でも、そのときは面接というよりも世間話を2時間ぐらいして。僕も「入れてください」と告げたのですが、まだスタッフが辞めたばかりだから「これから考える」と。さすがに初対面だから、信藤さんもわからない。でも、僕のほうは会社辞めてプータロー的に休むつもりだったし、よそは考えられないから「待ってます」と伝えたんです。そうしたら、二ヶ月ぐらい後に「バイトしない?」と電話がかかってきました。
北山●いえ。その前に、いくつか掛け持ちしていた中の一社から声がかかって就職しました。社内アートディレクターのアシスタントですね。そこでも勉強と思っていたので、3年は辞めないつもりだったのですが、ちょうど3年目に会社の規模が縮小されることになった。そこで、ついていたアートディレクターが独立して、僕がその後釜に……という打診があったのですが、その頃、すでに音楽関係の仕事をしたいと考えていたんです。
——やはり音楽が好きだったから?
北山●もともと、スタイル・カウンシルとか大好きでした。でも、当時はまだジャケットの仕事が多くあるような時代ではなかった。レコード会社のハウスデザイナーか、奥村靫正さんのような大御所、もしくは当時主流だったビートパンク系のアーティスト寄りの人たちばかりで、あまり見本になるデザイナーがいなかったんですよね。
——ちょうど80年代末ですね。
北山●そこへ、フリッパーズ・ギターが登場したんですよ。スタカン好きにはドンピシャじゃないですか。日本にそういうアーティストが登場するとは思ってもいなかったので、ものすごく衝撃を受けたんです。で、作品を買って調べたら、信藤三雄さんのコンテムポラリーに行き着いて。もう「大変だ!」って感じだった。
——すぐ門を叩いたのですか?
北山●たまたま桑沢の後輩で、モノクローム・セットのライブや渋谷WAVEのセールなどでよく遭遇する音楽の趣味が合う人間がいたんです。で、僕が「いま、何やってるの?」と訊いたら「コンテムポラリーというところに入りまして」と言うんですね。
——偶然ですね。
北山●それから彼とコンタクトをとり始めて、飲みにいくようになった。僕はもう会社を辞めると決めていたから、もしかしたら人員の空きが出るかもしれないと思って様子をうかがっていたんです。で、ある日、彼に電話をかけたらたまたま信藤さんが隣にいて、経緯を説明してもらったら「遊びにおいでよ」と。
——ちょうど空きがあったのですか?
北山●ええ。でも、そのときは面接というよりも世間話を2時間ぐらいして。僕も「入れてください」と告げたのですが、まだスタッフが辞めたばかりだから「これから考える」と。さすがに初対面だから、信藤さんもわからない。でも、僕のほうは会社辞めてプータロー的に休むつもりだったし、よそは考えられないから「待ってます」と伝えたんです。そうしたら、二ヶ月ぐらい後に「バイトしない?」と電話がかかってきました。
北山さんの仕事から
V.A.『C.A.P.S. 2-2nd EDITION/A felicity SAMPLE』
(2006年/フェリシティ)
コンテムポラリー・プロダクション時代より付き合いが続く、
元トラットリアのスタッフによる優良レーベル・サンプラー第二弾。
前作『C.A.P.S. 1-BEAT OF THE MOMENT 03』でも、
白地にロゴのエンボス……とストイック極まるデザインにより
多種多彩なアーティストを擁するレーベル・カラーを逆ベクトルで形状化
(2006年/フェリシティ)
コンテムポラリー・プロダクション時代より付き合いが続く、
元トラットリアのスタッフによる優良レーベル・サンプラー第二弾。
前作『C.A.P.S. 1-BEAT OF THE MOMENT 03』でも、
白地にロゴのエンボス……とストイック極まるデザインにより
多種多彩なアーティストを擁するレーベル・カラーを逆ベクトルで形状化
信藤三雄さんの存在感
——いくつのときですか?
北山●25歳の終わり。綱渡り生活でしたね。その話がぽしゃったら、デザイナーを諦めようと思っていたほど。で、コンテムポラリーに行ったら、ミスターチルドレンのサンプル盤を1枚まかされて。作ったら「いいじゃん」と。もう1枚作った後、信藤さんから「どれぐらいできるかわかったし、一緒にやっていけそうだから」と入社のお誘いをいただけた。でも「入ったら容赦しないよ。いまはお客さん扱いだけど」って(笑)。こっちも望むところでしたが。
——当時、コンテムポラリーの規模は?
北山●総勢8人ぐらい。ちょうど93年で、コーネリアスがデビューの年ですね。
——5年間の勤務で、何を得ましたか?
北山●得たものを語りだしたらキリがない(笑)。前提としては、やっぱり信藤さんの存在感が大きいですよね。ああいう人物にはなれないと、すぐわかった。社会との向き合い方というか、人との付き合い方というか……常に刺激を受けている生き方。
——渋谷系真っ盛りの時期ですよね。
北山●同時期に所属していたデザイナーもみんな同世代で、毎日が刺激の受け合いでした。で、信藤さんにどうやってラフを通すか……クライアントの前にまず信藤さんを納得させなければならない。そうしないと入稿に間に合わないという緊張感が日々あって。
——作業はトップダウンなんですか?
北山●ケース・バイ・ケースです。最初のディレクションはすべて信藤さんがやりますが、デザインは「こんな感じかな……」という振り方が多かった。もちろん具体的な振りもありましたが、そうではない場合は3案ぐらい作って、見てもらってもNGな場合がある。入稿ギリギリのときは徹夜で作り直して、信藤さんの入り待ちで「これでは?」とチェックを受けることもよくありました。
——アーティストで担当が決まっていたり?
北山●なんとなく分担はありましたね。僕は最初、オリジナル・ラヴをやらせてもらっていて、その後にコーネリアスとトラットリアがメインになった。ちなみにコーネリアスは当初、全員持ち回りでやっていたんです。ロゴは誰、デザインは誰……みたいに。で、2枚目のアルバム『69/96』から僕が専属になって、それ以降はずっと。
——趣味、資質も考えて?
北山●それはよくわかりません。信藤さんも考えていたとは思いますが……。僕にしてみたら、フリッパーズの仕事がしたかったわけですよね。バンドは解散しちゃって、それは叶いませんでしたが、小山田クンと仕事ができたのは、いま振り返ってもラッキーでしたね。
北山●25歳の終わり。綱渡り生活でしたね。その話がぽしゃったら、デザイナーを諦めようと思っていたほど。で、コンテムポラリーに行ったら、ミスターチルドレンのサンプル盤を1枚まかされて。作ったら「いいじゃん」と。もう1枚作った後、信藤さんから「どれぐらいできるかわかったし、一緒にやっていけそうだから」と入社のお誘いをいただけた。でも「入ったら容赦しないよ。いまはお客さん扱いだけど」って(笑)。こっちも望むところでしたが。
——当時、コンテムポラリーの規模は?
北山●総勢8人ぐらい。ちょうど93年で、コーネリアスがデビューの年ですね。
——5年間の勤務で、何を得ましたか?
北山●得たものを語りだしたらキリがない(笑)。前提としては、やっぱり信藤さんの存在感が大きいですよね。ああいう人物にはなれないと、すぐわかった。社会との向き合い方というか、人との付き合い方というか……常に刺激を受けている生き方。
——渋谷系真っ盛りの時期ですよね。
北山●同時期に所属していたデザイナーもみんな同世代で、毎日が刺激の受け合いでした。で、信藤さんにどうやってラフを通すか……クライアントの前にまず信藤さんを納得させなければならない。そうしないと入稿に間に合わないという緊張感が日々あって。
——作業はトップダウンなんですか?
北山●ケース・バイ・ケースです。最初のディレクションはすべて信藤さんがやりますが、デザインは「こんな感じかな……」という振り方が多かった。もちろん具体的な振りもありましたが、そうではない場合は3案ぐらい作って、見てもらってもNGな場合がある。入稿ギリギリのときは徹夜で作り直して、信藤さんの入り待ちで「これでは?」とチェックを受けることもよくありました。
——アーティストで担当が決まっていたり?
北山●なんとなく分担はありましたね。僕は最初、オリジナル・ラヴをやらせてもらっていて、その後にコーネリアスとトラットリアがメインになった。ちなみにコーネリアスは当初、全員持ち回りでやっていたんです。ロゴは誰、デザインは誰……みたいに。で、2枚目のアルバム『69/96』から僕が専属になって、それ以降はずっと。
——趣味、資質も考えて?
北山●それはよくわかりません。信藤さんも考えていたとは思いますが……。僕にしてみたら、フリッパーズの仕事がしたかったわけですよね。バンドは解散しちゃって、それは叶いませんでしたが、小山田クンと仕事ができたのは、いま振り返ってもラッキーでしたね。
北山さんの仕事から
CORNELIUS『CHAPTER 8 ~Seashore and Horizon~』
(1998年/Matador Records)
独立直後に手がけた、コーネリアスのUKシングル盤。
海外進出第一弾『FREE FALL』の現地デザインの出来が悪く、
小山田氏より「手伝って」と声をかけられ共同作業したという
CORNELIUS『CHAPTER 8 ~Seashore and Horizon~』
(1998年/Matador Records)
独立直後に手がけた、コーネリアスのUKシングル盤。
海外進出第一弾『FREE FALL』の現地デザインの出来が悪く、
小山田氏より「手伝って」と声をかけられ共同作業したという
次週、第3回は「満を持しての独立」についてうかがいます。
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee 作品写真:谷本 夏)
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee 作品写真:谷本 夏)
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[プロフィール] きたやま・まさかず●1967年神戸生まれ。桑沢デザイン研究所卒業後、デザイン事務所のアシスタントを経て、コンテムポラリー・プロダクションに入社。5年在籍後、98年に独立して「HELP!」設立。コーネリアス、felicityレーベル、The MiceteethなどのCDジャケット、J SPORTS「Foot!」などサッカー番組のタイトル・ロゴやオープニング映像のアートディレクションを手がけている。今夏、初の作品集を刊行予定。 |