様々なジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ、今回は白銀屋、KDDI auのサイトなどを手がけるイム・ジョンホさんを取材し、韓国生まれの経歴から現在に至るまでの足跡をたどります。
第2話 ビジネス・アーキテクツ在籍時代
イム・ジョンホさん
コーディング三昧の日々
——Webの世界に興味を抱いたのは、デザイン的なところから? それともサイトを作る技術的なところからですか?
イム●ウェブデザイン・アワードの年鑑を手にするまでは、なんとなく趣味で作っていたのですが、その後、刺激的なサイト表現と数多く出会ったこと。まさにWebから入ったデザイナーですね。いままでの流れだと、普通は印刷物や映像から入っていきますよね。僕はまさにインターネットのいろんなサイトを見て、こういうものを作ってみたいというのが出発点だった。
——大学卒業後の就職先をどのように考えました?
イム●最初はアルバイトしようと思って、中古車販売のサイトを作っている6畳一間でやってるような会社ですね。こういう仕事できたら、他のバイトするよりよっぽど楽だな……という不純な理由(笑)。で、いろいろやっているうちに、例のMLで福井信蔵さんや中村勇吾さん、Webデザイン界で誰もが知っている人たちが集まって会社を作ったことを知ったんです。それがビジネス・アーキテクツでした。
——門を叩いたのですか?
イム●自分で作ったサイトを送り、なんでもさせて欲しい……と応募して、面接を受けました。でも、まだデザインはスキル的に厳しいので、最初はコーディングから始めようという形でアルバイトに雇ってくれました。大学在学中に入って3ヶ月後、卒業する前に正社員になりましたが、そこから1年半ぐらいはコーディングばっかり。
イム●ウェブデザイン・アワードの年鑑を手にするまでは、なんとなく趣味で作っていたのですが、その後、刺激的なサイト表現と数多く出会ったこと。まさにWebから入ったデザイナーですね。いままでの流れだと、普通は印刷物や映像から入っていきますよね。僕はまさにインターネットのいろんなサイトを見て、こういうものを作ってみたいというのが出発点だった。
——大学卒業後の就職先をどのように考えました?
イム●最初はアルバイトしようと思って、中古車販売のサイトを作っている6畳一間でやってるような会社ですね。こういう仕事できたら、他のバイトするよりよっぽど楽だな……という不純な理由(笑)。で、いろいろやっているうちに、例のMLで福井信蔵さんや中村勇吾さん、Webデザイン界で誰もが知っている人たちが集まって会社を作ったことを知ったんです。それがビジネス・アーキテクツでした。
——門を叩いたのですか?
イム●自分で作ったサイトを送り、なんでもさせて欲しい……と応募して、面接を受けました。でも、まだデザインはスキル的に厳しいので、最初はコーディングから始めようという形でアルバイトに雇ってくれました。大学在学中に入って3ヶ月後、卒業する前に正社員になりましたが、そこから1年半ぐらいはコーディングばっかり。
アートがないアートディレクター
——その間、制作仕事の流れを憶えた?
イム●先輩デザイナーの仕事を眺めながら憶えていきましたね。当初はコーディングの作業で、画像を切り出すだけでも楽しかったんです。でも、やはり目標は自分でデザインすること。だから、徐々に鬱憤もたまってきた(笑)。
——何をきっかけにADを任せられるように?
イム●2002年頃、会社がすごく忙しい時期に、ある会社のコンペがあったんです。13社ぐらい集まったのですが、社内で受け持つ人員がいない。そこで、日頃から「デザインやりたい」とアピールしていた僕に任せてみようと、先輩たちが言ってくれたんです。2週間ぐらいプレゼンの準備をして、デザインしていきました。3次コンペまであって、2回目からは先方まで行ってプレゼンする。幸運なことに「それもお前がやれ」と。普通は戦略担当の方や経験のある方がやるのですが、一緒にやっていただいたプロマネの方の資料と自分なりに組み立てた資料を持ってプレゼンしたら、それが通ってしまったんです。
——念願叶ったわけですね。
イム●ええ。でも、社内ではよく「アートがないアートディレクター」とからかわれていたました。考えてみれば、アートのバックグラウンドが何もない。それがコンプレックスでしたね。当時の僕は、とにかくコーディングに飽きていたので、たとえば制作進行をやるとか、全体の管理をやるとか、なにげにそういう動きを意図してやっていました。いわば仕切りの能力を一番買われて、デザインのスキルがちょっと追いついたのなら、お前はそういうポジションで……ということですね。
——いくつのときですか?
イム●25歳頃ですね。
——そこが現在に至る原点的な分岐ですね。
イム●はい。キャリアのスタートでした。
イム●先輩デザイナーの仕事を眺めながら憶えていきましたね。当初はコーディングの作業で、画像を切り出すだけでも楽しかったんです。でも、やはり目標は自分でデザインすること。だから、徐々に鬱憤もたまってきた(笑)。
——何をきっかけにADを任せられるように?
イム●2002年頃、会社がすごく忙しい時期に、ある会社のコンペがあったんです。13社ぐらい集まったのですが、社内で受け持つ人員がいない。そこで、日頃から「デザインやりたい」とアピールしていた僕に任せてみようと、先輩たちが言ってくれたんです。2週間ぐらいプレゼンの準備をして、デザインしていきました。3次コンペまであって、2回目からは先方まで行ってプレゼンする。幸運なことに「それもお前がやれ」と。普通は戦略担当の方や経験のある方がやるのですが、一緒にやっていただいたプロマネの方の資料と自分なりに組み立てた資料を持ってプレゼンしたら、それが通ってしまったんです。
——念願叶ったわけですね。
イム●ええ。でも、社内ではよく「アートがないアートディレクター」とからかわれていたました。考えてみれば、アートのバックグラウンドが何もない。それがコンプレックスでしたね。当時の僕は、とにかくコーディングに飽きていたので、たとえば制作進行をやるとか、全体の管理をやるとか、なにげにそういう動きを意図してやっていました。いわば仕切りの能力を一番買われて、デザインのスキルがちょっと追いついたのなら、お前はそういうポジションで……ということですね。
——いくつのときですか?
イム●25歳頃ですね。
——そこが現在に至る原点的な分岐ですね。
イム●はい。キャリアのスタートでした。
次週、第3話は「自分ができる限りのことを」についてうかがいます。お楽しみに。
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
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[プロフィール] イム・ジョンホ●アートディレクター。1977年韓国・釜山生まれ。1991年来日。2000年に(株)ビジネス・アーキテクツ入社。アートディレクターとしてイオングループ、積水ハウスなどの大規模サイトを手がける。2004年に独立後、写真と言葉を中心とした表現に取り組み、2007年「toconoma inc.」 設立。 映像表現をはじめ新しい領域に挑戦中。http://7779.net |