
様々なジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はグラフィックデザイナーの仕事と並行しながら、美術作家としても活動を展開する鈴木真吾さんを取材し、紆余曲折の学生時代から今日までの足跡をたどります。
第2話 予備校講師とアート制作

神田のギャラリー「KANDADA」にて、鈴木真吾さん
留年して、社会が見えた
──事故で留年後、ふたたび就職活動を?
鈴木●いいえ。結局、就職はしませんでした。入院中に同級生の就職先がどんどん決まっていって、ベッドの上で焦り始めていたのですが……自分一人、就職しなくても社会は回っていくんだなって、妙にリアルに感じてしまって(笑)。
──ああ、なるほど。
鈴木●もともと制作会社に就職して映像を撮りたいと思ったのも、いろんなところに行きたかったからなんですね。世界各地、いろんなものを見たくて。ドキュメンタリーを撮るような制作会社に入れば、仕事で行けると考えていたんです。でも突き詰めると、なにがなんでも映像のディレクターになりたいというわけではなかった。だったら自分が本当に好きでやりたいこと、純粋に作品表現できる方向にいってみようか……と。
──まさに、ケガの功名ですね。
鈴木●就職しても土日は休みだから「俺は絵を描いていくぜ」という友達も周りにいたのですが、そんなこと実際は難しいんですよね。そういうのを見聞きしていたから、余計に就職したら自分の作品を作れなくなると思って。
──1年遅れたおかげで、社会が見えた?
鈴木●ええ(笑)。
──生活のほうは?
鈴木●最初は大変でしたよ。いきなりアートで食べられるわけないので、予備校の講師を契約で始めました。自分が以前学んだ鎌倉の学校です。
──どのくらいの期間?
鈴木●20代の終わりまで。大体、若くして作家活動するような人は、何かしらバイトをしてますが、割と予備校の講師とかが多いんです。同じ予備校の講師仲間も作家活動をしていたので、いろいろ教わったり。それまでずっとデザインの勉強をしてきたので、作品を発表するのはどうしたらいいのか、アーティストはどういうところにいるのか……僕はさっぱりわからなかったんです。そういう意味では、予備校の講師時代に知り合った方たちとは、いまの活動につながる上で大事な関係で。
鈴木●いいえ。結局、就職はしませんでした。入院中に同級生の就職先がどんどん決まっていって、ベッドの上で焦り始めていたのですが……自分一人、就職しなくても社会は回っていくんだなって、妙にリアルに感じてしまって(笑)。
──ああ、なるほど。
鈴木●もともと制作会社に就職して映像を撮りたいと思ったのも、いろんなところに行きたかったからなんですね。世界各地、いろんなものを見たくて。ドキュメンタリーを撮るような制作会社に入れば、仕事で行けると考えていたんです。でも突き詰めると、なにがなんでも映像のディレクターになりたいというわけではなかった。だったら自分が本当に好きでやりたいこと、純粋に作品表現できる方向にいってみようか……と。
──まさに、ケガの功名ですね。
鈴木●就職しても土日は休みだから「俺は絵を描いていくぜ」という友達も周りにいたのですが、そんなこと実際は難しいんですよね。そういうのを見聞きしていたから、余計に就職したら自分の作品を作れなくなると思って。
──1年遅れたおかげで、社会が見えた?
鈴木●ええ(笑)。
──生活のほうは?
鈴木●最初は大変でしたよ。いきなりアートで食べられるわけないので、予備校の講師を契約で始めました。自分が以前学んだ鎌倉の学校です。
──どのくらいの期間?
鈴木●20代の終わりまで。大体、若くして作家活動するような人は、何かしらバイトをしてますが、割と予備校の講師とかが多いんです。同じ予備校の講師仲間も作家活動をしていたので、いろいろ教わったり。それまでずっとデザインの勉強をしてきたので、作品を発表するのはどうしたらいいのか、アーティストはどういうところにいるのか……僕はさっぱりわからなかったんです。そういう意味では、予備校の講師時代に知り合った方たちとは、いまの活動につながる上で大事な関係で。

鈴木さんの作品より「1000のバイオリン」
(2007年/KANDADA)
今年7月に開催された個展にて。黒紙の折り鶴を、
観覧者に千円札で折ってもらったものと置き換えていった。
千羽×千円=100万円に到達したら、
社会に貢献できるものを購入……というアクティブな作品
作家活動の中からデザインを始める
──当時は、どのようなものを作っていたのですか?
鈴木●映像はまだ個人で作るのが難しかったので、基本的にはインスタレーション。立体のオブジェとかですね。制作場所も仲間と共同で、横須賀や藤沢に倉庫みたいなところを借りてました。いまも辻堂にあります。
──グラフィックデザインの仕事は?
鈴木●講師業を続けながら作品づくりをしているうち、いま一緒に「コマンドN」の活動をしている中村政人さんと知り合ったのが大きなきっかけです。98年にコマンドNが立ち上がったとき、中村さんに「デザインできるのだから、ロゴマークを考えて」と言われて作ったり、展覧会の案内状を作ったり。
──そういうところから徐々に、デザイナーとしての作業が広がって?
鈴木●そうです。だから、デザイナー歴よりもアーティスト歴のほうが長くて、その活動の中からデザインの仕事を始めていった。ちょうどその頃、Macも手頃な値段になってきたので、自分で買い揃えたんです。
──じゃあ、デザイナーは後付けというか……
鈴木●ええ。普通ならデザイン事務所に就職して、キャリアとコネクションを作ってから独立……というのが王道パターンですよね。僕の場合はそういう形ではなくて、自分たちのアート活動をしながら、デザインの仕事を覚えていったようなもので。
──予備校の講師もその頃、辞めたのですか?
鈴木●コマンドNが立ち上がって、2年後ぐらいですね。デザイナーとしても忙しくなってきたし、予備校のほうもそろそろ、いろんな意味で限界があって(笑)。
鈴木●映像はまだ個人で作るのが難しかったので、基本的にはインスタレーション。立体のオブジェとかですね。制作場所も仲間と共同で、横須賀や藤沢に倉庫みたいなところを借りてました。いまも辻堂にあります。
──グラフィックデザインの仕事は?
鈴木●講師業を続けながら作品づくりをしているうち、いま一緒に「コマンドN」の活動をしている中村政人さんと知り合ったのが大きなきっかけです。98年にコマンドNが立ち上がったとき、中村さんに「デザインできるのだから、ロゴマークを考えて」と言われて作ったり、展覧会の案内状を作ったり。
──そういうところから徐々に、デザイナーとしての作業が広がって?
鈴木●そうです。だから、デザイナー歴よりもアーティスト歴のほうが長くて、その活動の中からデザインの仕事を始めていった。ちょうどその頃、Macも手頃な値段になってきたので、自分で買い揃えたんです。
──じゃあ、デザイナーは後付けというか……
鈴木●ええ。普通ならデザイン事務所に就職して、キャリアとコネクションを作ってから独立……というのが王道パターンですよね。僕の場合はそういう形ではなくて、自分たちのアート活動をしながら、デザインの仕事を覚えていったようなもので。
──予備校の講師もその頃、辞めたのですか?
鈴木●コマンドNが立ち上がって、2年後ぐらいですね。デザイナーとしても忙しくなってきたし、予備校のほうもそろそろ、いろんな意味で限界があって(笑)。






鈴木さんの仕事より、コマンドN主宰のギャラリー「KANDADA」開催展のフライヤー
上左:姜洪求 個展「於義島へ行く」(2006年10月)
上右:コジット・ジュンタラティップ 個展「痛みのデュエット」(2006年11月)
中左:PLAYTIME 2006(2006年12月)
中右:ピーター・ベラーズ 個展「データ・Building on Experience」(2007年6月)
下左:鈴木真吾 個展「手のひらを太陽に」(2007年7月)
下右:伊藤敦 個展「"777"」(2007年9月)
copyright commandN/無断転載・複製を禁じます
上左:姜洪求 個展「於義島へ行く」(2006年10月)
上右:コジット・ジュンタラティップ 個展「痛みのデュエット」(2006年11月)
中左:PLAYTIME 2006(2006年12月)
中右:ピーター・ベラーズ 個展「データ・Building on Experience」(2007年6月)
下左:鈴木真吾 個展「手のひらを太陽に」(2007年7月)
下右:伊藤敦 個展「"777"」(2007年9月)
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次週、第3話は「アートから広がるデザイン」についてうかがいます。
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
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[プロフィール] すずき・しんご●1966年神奈川県生まれ。グラフィックデザイナー。桑沢デザイン研究所中退後、多摩美術大学デザイン学科グラフィックデザイン専攻卒業。98年よりコンテンポラリーアートの制作集団「commandN」に参加。99年より映像制作ユニット「√R」としても活動。 |




