第2話 CBSソニーに入社 | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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様々なジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回は浜田省吾、尾崎豊など、錚々たるアーティストのジャケットを手がけてきたアートディレクター、田島照久さんを取材し、今日までの足跡をたどります


第2話 CBSソニーに入社



コレクションのギターが並ぶ、南青山のオフィス

コレクションのギターが並ぶ、南青山のオフィス


試験で描いたバーンスタインの「手」



──就職活動は?

田島●前回も言ったように将来への意識が薄くて。活動も人任せというか、友達から「こういうことやってるよ」と教えられて、そこを受けに行くという始末でした。で、最初に受けたのが平凡出版。いまのマガジンハウスですね。そこはデザイナー職で受けたのではなくて、編集も含めた一般職だったと思います。でも難関で、何千人と受けに来ていた。その試験の帰り道、友達が「CBSソニーという新しい会社があって」みたいな話をしたんです。会社の存在自体は知っていたのですが、募集してるいうことを耳にして。じゃあ受けてみようか、と。

──どのような入社試験でしたか?

田島●各大学から80人ぐらい受けに来ていて、最初は1人しか採用しないと聞かされました。結果的には複数人、採用されたのですが……そのときの課題が「レナード・バーンスタインのLPレコードをデザインせよ」でした。使っていいのは鉛筆だけ。タイトルなどのテキスト、バーンスタインのポートレート写真が一枚あって「2時間で作りなさい」と。

──すごく実践的ですね。

田島●ええ。で、80人いれば80人、俺はデッサンが得意だぞと顔を描くと思ったので、僕はバーンスタインの手を描いたんです。指揮棒を持っている手。で、胸のところにタイポグラフィを書き入れて。得意かどうかわからないけど、タイポグラフィは前に描いていたので思い出して、トレードゴシックだったらこんな具合かな……と。

──美術部時代の架空ジャケットが役に立ったのですね。

田島●手を描くのは、顔よりそんなに時間かからないんです。だからタイポグラフィに時間をかけて。結果の詳細はわからないですよ。でも80枚の作品がある中で、もしかしたら僕だけ顔を描いてなかったというのが目立ったかもしれない。

──で、受かったわけですね。

田島●ええ。そこまでは現役ですね。22歳で、現在のソニーミュージックのデザイン室に配属されました。音楽の趣味と沿って、嬉しかったですね。入ってみたら、いまのデザイン界の状況から見ると非常に自由でもあるし、なんか会社って感じではなかった。もうクラブみたいな職場で、学生のノリそのままで、先輩からは、いたずらばかりやらされました(笑)。

──それまでCBSソニーのデザイン室は、どれぐらいの歴史が?

田島●まだ、できて3年目ぐらいでした。デザイン室長もソニーのハードから来た方で、テレビとかプロダクトのほうが元々専門。その下は、ほとんど全員新人ですよね。グラフィックの基礎をみんな知ってるかというと、そうでもなくて。

──最初にまかされた仕事は?

田島●リック・スプリングフィールドのデビュー・シングル。行ったその日に「お前これやれ」って。まだ入稿方法とか知らないし、教えてもくれない。だから、印刷屋さんに聞いたり、もちろん先輩にも聞くんですけど、そんなに懇切丁寧には教えてくれない。どちらかというと、試されているというか……。で、入って1週間で4版分色とか、全部叩き込まれたわけです。

──現場で憶えるしかなかった?

田島●ええ。当時の美大は、そこまでプロの現場に入るためのベーシックは教えないですからね。いわゆるアカデミックな教育しかしないので。そういう意味では、入った日から必死で憶えていきましたね。


矢沢永吉『GOLDRUSH』1978年
サンタナ『ロータスの伝説』1974年

CBSソニー在籍時代の作品より
左:矢沢永吉『GOLDRUSH』1978年
「いま見ても、鬼気迫るものがありますね。本当に僕がやったの? と言いたくなります。これ、実は見開きで完結しているデザインなんです。ですから表1としての構図や機能は無視したデザインかもしれませんが、そこが何かしら力漲るものになっているのでしょうか。ところで、なんで見開きジャケットにしなかったのかな。確かその頃、見開きジャケットは予算がかかるから禁止令が出ていたような……。残念! でも何かしらのリミットがかかる。これがデザインというものです」
右:サンタナ『ロータスの伝説』1974年
「僕は、横尾さんのアシスタント・デザイナーを務めました。一昨年、このCDサイズの復刻版の紙ジャケットが発売され、当時のものを徹底的に再現したことが話題になりましたが、もし手に取る機会があったら細部まで観て下さい。ちゃんとこの複雑な仕掛けが、まんま再現されています。色等はオリジナルより良いくらいです。ついでに『Santana Amigos』の再現も凄いですよ。日本人の仕事は丁寧ですから、紙ジャケットが海外でブームになるのも分かりますね」


サンタナ、矢沢永吉の「名盤」を手がける



──以降、洋楽あり邦楽あり……

田島●人数も少ないので、いろんなことをやりましたね。僕の前の席にいる先輩はユイ音楽工房に強くて、吉田拓郎さんを担当をしたり、他にジャズを専門にやってる先輩もいて。僕なんかはその後に出てくるアーティストを「お前やる?」って言われて。だから、その頃デビューするアーティストは、新人の僕が仕方なく手がけるみたいな感じでしたね。

──特に、矢沢永吉さんの『GOLDRUSH』は相当なインパクトで。

田島●あれは入社して3〜4年目でした。力量も付いて来たころの作品です。それより前、入社した翌年ぐらいに、サンタナの『ロータスの伝説』を手がけることになったんです。23歳ぐらいのときに横尾忠則さんのところに行って、いきなりトップクラスのクリエイターのところに送り込まれた。ずいぶん勉強になりましたが。

──もう、何でも来いって感じですね。

田島●ああ、そうですね(笑)。仕事に対するストレスをまったく感じない状況で、真只中に放り込まされた。会社としては何億と売り上げがあるものを、新人に任せるしかないような時代でしたから。無謀かもしれないし、そういった意味では新しいものができてくる可能性もありますよね。実際、とんでもないものになったのは、僕の世間知らずを良い事に、頭の良い横尾さんがそれを利用した結果だと思ってます(笑)。

──80年代までの作品を見ると、アナログ合成を試みていることが多いですね。

田島●職場で一番間近に見るグラフィックというものは、当時の親会社(CBSコロムビア)の仕事なんですね。基本的にはデザインされたものが送られてきて、ジャケットになる前のスリックシートという状態の色校を見るのですが、それがいつも刺激になっていて。彼らの方法論は多種多様で、それは当時の日本にはないものだったんです。その方法論を日本でやろうとすると、彼らのほうが20年も先に進んでいますから、なかなか難しい。もちろん予算もかかるというのがあって。そのへんは頑張って、予算がかからない方法を模索していました。合成には早くから興味もあったし、本国の水準に早く近づきたいと思ってましたね。その頃の最初の成功例が『GOLDRUSH』とも言えると思います。

──技術を日本に持ってくるという努力もあったわけですね

田島●ええ。その反面、逆のこともあるんです。アメリカって、そういう意味ではすごくシステム化されていたと思う。無駄のない、あまり余計なことは語らないデザインですよね。それが日本に合うかというと、それも多分違うかもしれない。アメリカのものが100%面白いかというと、そうではなくて、デザイン先進国として進んでいる結果、保守化され始めていることもあったのではないかと思うんです。そのへんの影響を多少受けちゃったかなとも思う。だから、逆に言うと、もっとバカなデザインを若いときにやっておけばよかったかと最近思いますが。

──いや、サンタナの『ロータスの伝説』とか相当……

田島●そうですよね。でもそれは、横尾さんが超越していたからで(笑)。


ボブ・ディラン『At Budokan』1979年
マイルス・デイヴィス『DARK MAGUS』1974年V.S.O.P.『TEMPEST IN THE COLOSSEUM』1977年

CBSソニー在籍時代の作品より
左:ボブ・ディラン『At Budokan』1979年
「まさか、ディランのジャケットをデザインすることになろうとは思いませんでしたから、とにかく興奮してました。武道館のステージも素晴らしくて、歴史的なアルバムになるような気がしていました。35ミリの写真の顔を荒れても構わないと、ぎりぎりまでアップにしました。ディランのジャケットの中でも印象的な鋭い顔ではないでしょうか。先日、このCDを買ったら自分のクレジットが裏に大きく表記されていて、良い仕事に携われていたことを痛感してます」
中:マイルス・デイヴィス『DARK MAGUS』1974年
「マイルスのジャケットは何枚かデザインしていますが、そのなかでもこれが一番好きです。モノクロの写真をビデオカメラを通してテレビのモニターに映し、ビデオ編集スタジオのソラリゼーション機能などを使ってサイケデリックな雰囲気を演出。そのテレビ画面を撮影したものを写真原稿にしています。つまりパソコンがない時代の苦肉の策ですね」
右:V.S.O.P.『TEMPEST IN THE COLOSSEUM』1977年
「錚々たるジャズミュージシャンたちが組んだスーパーグループでしたから、こんな宇宙的なことを考えたのではないかと思います。パソコンなどない時代、僕の中では映画『2001年宇宙の旅』のイメージが最も進んだ世界観だったのです。70年代に流行ったレーザービームのライトショーを撮影して、ロサンゼルスの夜景に浮かべています。これでも当時は、光学合成ではトップクラスの技術を持つラボに頼んで作ってもらうしか方法はありませんでした」

次週、第3話は「渡米、そして独立」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)

田島照久さん

[プロフィール]

たじま・てるひさ●1949年福岡県生まれ。多摩美術大学グラフィック・デザイン科卒業後、CBSソニーに入社。デザイン室勤務を経て、80年に独立。94年「ジーズデイズ」を設立。音楽/映像ソフトのパッケージ、広告、書籍装幀など、多岐に渡る分野のアートディレクションを手がける。また『DINOPIX』『identifier』など、自身によるデジタル写真集を出版

http://www.thesedays.co.jp/




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