第3話 渡米、そして独立 | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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様々なジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回は浜田省吾、尾崎豊など、錚々たるアーティストのジャケットを手がけてきたアートディレクター、田島照久さんを取材し、今日までの足跡をたどります


第3話 渡米、そして独立



コレクションのギターが並ぶ、南青山のオフィス

南青山のオフィスにて


写真への意欲が芽生えていった



──CBSソニーには何年間在籍を?

田島●6年間です。辞めた理由は……はっきりとしたものはなかったですね。ある日の昼休みに、突然、今日辞めようと思い立ったんです。

──28歳のときですね。独立するには早いけど、出るのも早いですよね?

田島●ええ。で、とりあえず、ありがちですが渡米したんです。当初は1ヶ月のつもりで行きましたけど、結局1年間、オープンチケットが効かなくなるまでロサンゼルスを拠点にアメリカ各地を旅行してました。もう夢のような1年でした。今もあの頃を思い出して「ああ、よかった」と(笑)。まだ家族もいなかったから一人だし自由だし、もうこれが一生続けばいいなってぐらいに思ってました。

──その間、仕事は?

田島●少しはしてました。当時、アメリカに長期で滞在する人はまだ少なくて、ソニーの先輩のディレクターたちがやってくると邦楽洋楽を問わず、そのコーディネーション的な仕事をやらされていたんです。アーティストの事務所に電話して、リハーサルを見学に行ったりしてました。70年代の終わりでしたが、ウエストコーストの音楽が最も盛んな頃で、そのおかげで歴史的なミュージシャンをたくさん観ることが出来ました。サンセットにある「ロキシー」というクラブにはほとんど毎週通ってました。その1年間はデザインというよりも音楽に関する場にいることの方が多かったんです。

──帰国後はどうしようと?

田島●アメリカ滞在で、一番よかったのは写真をずっと撮っていたことなんですね。とは言っても35mmのカメラ1台、レンズ2〜3本ですが、時間はいくらでもあったので車で旅に出るといろんなものを撮っていました。スキルがついたかどうかわからないけれど、ギャラリーを覗いたりプロのカメラマンの現場を観に行ったりするうちに、写真に対する意欲が自分の中で芽生えていて。この先、ひょっとして日本に帰ったら、写真も仕事にしてみようかな……と思うぐらいの気持ちになってました。それまではグラフィックデザインをやることしか考えてなかったし、はっきりと決めていたわけではないですが、一人で仕事やるとしたら撮影も引き受けてみようかと。

──で、80年に初めて事務所を立ち上げて。

田島●ええ。一人で。でも、ほんとまったく策はなかった。

──音楽モノはやっていこうと?

田島●営業もどうやってやればいいかわからないし、音楽モノをやっていこうというのもなかったかもしれません。もちろん、事務所を作ったことはそれまで付き合いのあった音楽関係の方とかにはインフォメーションしてましたが。でも、そんなに都合良く仕事が来るのかは疑問でした。

──電話がかかってくるのを待つ?

田島●そうですね。もう内容も聞かないうちから、はいはい、なんでもやりまっせって(笑)。実際に、記念乗車券のデザインやパチンコ屋さんのネオンなど、いただける仕事は何でもデザインしていました。


南佳孝『Montage』1980年 杉真理『STARGAZER』1983年Hound Dog『Love』1986年

独立後の仕事より

左:南佳孝『Montage』1980年
「僕の独立後、第一作のLPジャケット。YMOも参加していて当時の最先端の音でしたから、モード的、ファッション的なものを意識したデザインにしています。これで失敗したら仕事が来なくなるかもしれない……と命がけでやってました。出来上がった校正刷りを見たプロデューサーの高久光雄さんが「田島、おまえ、これでいくらもらえるの?」と訊いてきたので「全部で13万です」と答えたら「よし、俺が掛け合ってもっともらってやる」と言ってくれたのを覚えてます。お陰でその倍くらいもらえたと思います。アルバムは大ヒットでした」

中:杉真理『STARGAZER』1983年
「この時期の杉さんの作品テーマは映画的な世界観が多く、探偵モノやSFを題材にデザインすることが多かったですね。この『STARGAZER』は事件現場の立体映像を覗く“SUGI探偵
という設定です。25年前はまだ3DCGの表現が難しく、実は手で書いたものをそれ風に見せて合成しています。杉さんとはジャケット以外にも、おふざけビデオやミステリアスな本やギャグ満載のPVやら、おかしなものをたくさん作りました。バカばっかりやっていたのが懐かしいですね」

右:Hound Dog『Love』1986年
「これも独立してからの仕事で印象深いものです。正統派ロックバンドのジャケットって難しいんです。僕はどうしてもメンバー6人を表紙にすることはだけは避けたくて、いつも苦慮していました。それで、タイトルの“LOVE
を樹木に見立て、その木が成長した姿を考えたんです。よく見ると曲目が全部入っていますが、実はこれ、左手で書いたものなんです。あまり私情が入らないように、利き腕の文字は避けて、ギクシャクしたものにしたかったんです。しかも一回で、一気に書いたものです。制作過程もロックしてるでしょ、潔くて。これも当時首位獲得でした


DTP以前、デジタルへの移行




──独立後、初めての音楽の仕事は?

田島●南佳孝さんの『モンタージュ』というアルバムですね。

──クライアントはソニー系列が多く?

田島●ところがそうでもなくて、割といろんなところからおしなべてもらいました。ありがたいことに。

──その後、82年に「タジマデザイン」を設立、80年代末にはMacIIを導入……とプロフィールにありますが、早くもデジタルデザインへの移行がありますね。当時、個人的に記憶が鮮やかなのは、杉真理さんの『オーバーラップ』なのですが。

田島●『オーバーラップ』はまだアナログ合成なんです。次回作の『スターゲイザー』からデジタルの技術を使ってますが、レイアウトスキャナーというデジタル製版機が印刷所に導入され始めて、高額なものなのでオペレーションは時間貸しなんです。おまけに、自分ではハンドリングできない。実は尾崎豊さんのデビューアルバム『17歳の地図』もそのレイアウトスキャナーを使っていて、その頃から間接的にはデジタルになっていたわけです。

──当初はどうでした?

田島●その頃から僕はもう「これしかない」と思ってましたね。というか、僕しかいなかったんじゃないかな。レイアウトスキャナーというものに興味を持って、そういう手法を音楽の分野で使い始めていたのは。ただ、その頃はまだパーソナル・レベルのコンピュータではないので、事前に印刷所に設計図を送って、ある程度は技術の方のセンスに委ねるしかありませんでした。細かい変更でも予算オーバーになり、自分でハンドルできないもどかしさは感じていました。

──それから徐々に機材も揃って。

田島●ええ。僕の会社がフルデジタルになるのは94年でしたが、DTPになる以前は レーザーライターで出力したものを版下替わりにして、デジタルが一部介在してくるわけですね。僕の場合は英文の書体が日本製の写植機によるものではなくて、アメリカのアドビに代表される本格的なフォントを使えるというのが魅力だった。それがコンピュータによるデザイン化への最初の理由ですね。

──写真も撮られるから合成も?

田島●それはPhotoshopが出てくるまで待つことになるんです。で、出てきても今度は写真をPCに取り込む手段がまだない。スキャナーとかが充実してくる以前で、意識としては自分のPCの中で画像は早く扱いたいと思ってましたが。

──前例がないから難しかったのでは?

田島●そうですね。Photoshop以前には「PixelPaint」とか「Studio 32」とかいろんなソフトがあって、海外ロケなどのときにパソコンショップを覗いては買って来ていました。で、いろんなものを試すんだけどうまく行かない。そんな中、写真をしっかり扱えそうなPhotoshopが出るという情報を得て、迷わず英語版の1.0を購入しました。おそらく日本で一番早かったかもしれない。僕のシリアルは二桁なんです。レイヤー機能がまだなくて、合成モノは一度置いたら動かせないので、気合いを入れて命がけでやってました(笑)。


尾崎豊『十七歳の地図』1983年
『回帰線』1985年『壊れた扉から』1985年

浜田省吾『ON THE ROAD』1982年『この永遠の一秒に』1993年『SAVE OUR SHIP』2001年

田島さんの仕事より

上段:尾崎豊『十七歳の地図』1983年/『回帰線』1985年/『壊れた扉から』1985年
「うまく説明出来ないのですが、自分のデザインスタイルの中にあるアーティスティックな部分を引き出してくれたのは、尾崎さんの十代の3部作からだと思ってます。デビューからずっと、アートディレクション、写真、デザインのすべてを一任されていました。タイポグラフィにも果敢に取り組んでいた頃です。今、見返しても、あまり古くさくないのは、尾崎豊さんが持っている普遍性が表現されているのかもしれません。彼に出会わなかったら、僕のアーティスティックな表現手段は失われたままだったと思います。出会いとはそういうものです」

下段:浜田省吾『ON THE ROAD』1982年/『この永遠の一秒に』1993年/『SAVE OUR SHIP』2001年
「『ON THE ROAD』は浜田省吾さんの重要なテーマのコンサートツアーを意味する道路に、武道館のステージの照明を光学合成し、シンボル化したものです。『この永遠の一秒に』ではアラスカでロケーションし、超望遠で撮影していますが、こんな空気感はやはり遠くへ出かけないと得られないものです。『SAVE OUR SHIP』は珍しくサイバーパンクな世界感で作っていますが、これは店頭広告だけのものです。浜田さんの作品世界の表現は意外に難しくて、毎回その作品のテーマに近づけていくためには、地道なプレゼンをします。〈大仰ではないが斬新なもの〉を目指していますが、毎回そんなシンプルで力強いデザインをすることの難しさに直面しています


次週、第4話は「越境するデザイン意識」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)


田島照久さん

[プロフィール]

たじま・てるひさ●1949年福岡県生まれ。多摩美術大学グラフィック・デザイン科卒業後、CBSソニーに入社。デザイン室勤務を経て、80年に独立。94年「ジーズデイズ」を設立。音楽/映像ソフトのパッケージ、広告、書籍装幀など、多岐に渡る分野のアートディレクションを手がける。また『DINOPIX』『identifier』など、自身によるデジタル写真集を出版

http://www.thesedays.co.jp/




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