さまざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はグラフィックデザイナーの阿萬智博さんを取材し、今日までの足跡をたどります。
第2話 大学進学と就職
世田谷代田の仕事部屋にて、阿萬智博さん
補欠でムサビ合格!
──絵だけではなく、普通学科の勉強も?
阿萬●絵の方は描けたから若干チヤホヤされたんですけど、親が「浪人は絶対ダメ」だと言うから必死で勉強しましたね。
──美大に進むのに反対はされなかったのですか?
阿萬●反対されました。卒業して何になるのか、と言われた。あと「美大=金がかかる」というイメージがあって。でも、そのへんは奨学金がとれるとか、いろいろ調べて、入ったら大丈夫だと説得して。なんとか入学金を工面してくれたら、あとは全部自分でやるからと。
──で、いよいよ受験ですね。
阿萬●結局、東京造形大学と武蔵野美術大学を受けたんです。造形のほうが受験日早くて、すごく真面目な格好して行ったんですよ。でも、初めて九州から出たもんで、テンパっちゃって(笑)現役は学科で稼ぐしかないと言われていたのに、学科で落ちて。で、ヘコんで、こりゃ気合いを入れ直すしかないと思って、ムサビのときはもうスプレーで髪をビンビン立てて、ラバーソール履いて「オラーッ!」と行ったら、なんとか補欠でひっかかった。
──よかったですね。
阿萬●でも、奨学金がとれなかったんですよ。高校の成績が悪すぎて。だから1年のときはバイト3つぐらい掛け持ちして、家賃も1万7千円ぐらいのアパート。風呂もなくて、補欠で入って、九州出身で、現役で、もう人より勝るものが何もなかった。で、カッコイイなって奴には近づいていって、好きな音楽を教えてもらったり、洋服どこで買ってるのか教えてもらったり。
──勉強のほうは?
阿萬●課題もちゃんと出していたし、先生受けもそんなに悪くなかったですね。で、学校のすぐ近くのラーメン屋と居酒屋でバイトしていたから、学校の教授とか関係者が客で来るんですね。頑張ってるなって印象もあって、2年から奨学金はもらえるわ、卒業する先輩からモノは貰えるわ。
──よかったじゃないですか。
阿萬●はい。で、引っ越して、ようやく大学生らしい生活ができるようになりました。
阿萬●絵の方は描けたから若干チヤホヤされたんですけど、親が「浪人は絶対ダメ」だと言うから必死で勉強しましたね。
──美大に進むのに反対はされなかったのですか?
阿萬●反対されました。卒業して何になるのか、と言われた。あと「美大=金がかかる」というイメージがあって。でも、そのへんは奨学金がとれるとか、いろいろ調べて、入ったら大丈夫だと説得して。なんとか入学金を工面してくれたら、あとは全部自分でやるからと。
──で、いよいよ受験ですね。
阿萬●結局、東京造形大学と武蔵野美術大学を受けたんです。造形のほうが受験日早くて、すごく真面目な格好して行ったんですよ。でも、初めて九州から出たもんで、テンパっちゃって(笑)現役は学科で稼ぐしかないと言われていたのに、学科で落ちて。で、ヘコんで、こりゃ気合いを入れ直すしかないと思って、ムサビのときはもうスプレーで髪をビンビン立てて、ラバーソール履いて「オラーッ!」と行ったら、なんとか補欠でひっかかった。
──よかったですね。
阿萬●でも、奨学金がとれなかったんですよ。高校の成績が悪すぎて。だから1年のときはバイト3つぐらい掛け持ちして、家賃も1万7千円ぐらいのアパート。風呂もなくて、補欠で入って、九州出身で、現役で、もう人より勝るものが何もなかった。で、カッコイイなって奴には近づいていって、好きな音楽を教えてもらったり、洋服どこで買ってるのか教えてもらったり。
──勉強のほうは?
阿萬●課題もちゃんと出していたし、先生受けもそんなに悪くなかったですね。で、学校のすぐ近くのラーメン屋と居酒屋でバイトしていたから、学校の教授とか関係者が客で来るんですね。頑張ってるなって印象もあって、2年から奨学金はもらえるわ、卒業する先輩からモノは貰えるわ。
──よかったじゃないですか。
阿萬●はい。で、引っ越して、ようやく大学生らしい生活ができるようになりました。
阿萬さんの仕事より
左:松本人志・高須光聖『放送室 1』2008年/現在進行中
中:THE GROOVERS『Groovaholic』2001年/初めてCDジャケットのデザインをやったのがTHE GROOVERS。10枚くらいやっています。これは8枚目くらい
右:オセロケッツ『マフユ』1998年/8cmシングル。これを超えるものが自分の中でまだありません。いろんな意味で。オセロケッツは10枚くらいジャケをやりました。
左:松本人志・高須光聖『放送室 1』2008年/現在進行中
中:THE GROOVERS『Groovaholic』2001年/初めてCDジャケットのデザインをやったのがTHE GROOVERS。10枚くらいやっています。これは8枚目くらい
右:オセロケッツ『マフユ』1998年/8cmシングル。これを超えるものが自分の中でまだありません。いろんな意味で。オセロケッツは10枚くらいジャケをやりました。
自然体のオレを見せよう
──いま振り返って、大学のときの時間は役立っていますか?
阿萬●ええ。短大とかの連中に比べると時間があった分、バンドもちょこっとやったし、それ以外の時間も仲間がいて。いまはないですがファッション科の連中と遊んだりして、どんなものがカッコイイのか、どういう格好をしている奴がどんな音楽を聴いてるとか、そういうのを見る時間がありましたね。
──学科はグラフィックデザイン科?
阿萬●じゃなかったんです。基礎デザイン学科。試験で小論があって、作文が得意というのもあって、滑り止めで受けたらそこに受かったので。当時は2次志望で入った人が多い科でした。
──内容的にはどう違うのですか?
阿萬●理論が中心ですね。「作る」ために「考える」というよりは「考える」ために「作ってみる」という感じ。1〜2年はプロダクトもグラフィックもやるのですが、作りだして面白くなって「オッシャ!」というところで終わっちゃう。なので、できあがった作品だけ見ると正直あまり面白くない。卒業制作が論文の人もたくさんいるくらい。だいぶアカデミックなほうですね。
──じゃあ、いまの仕事的にはあまり関係ない?
阿萬●直接的にはあまり関係ないんですかね。課題でカッコイイものをつくった記憶がほとんどないですから。でも、そのストレスが僕の場合は外に向いたのかな。短大のグラフィックデザイン学科に行って、友達に頼んでシルクの大きい作品を作らせてもらったり。自分の作品を勝手に作っていたんですよ。
──どんな感じのものを?
阿萬●自己顕示欲の塊みたいなもの。自分の顔のB倍のポスターとか(笑)。あとは50'sが好きだったので、そういうもののパロディっぽい作品とか。だから卒業制作も学科的には理屈をつけないとダメなので、いろいろ理屈は並べたのですが、要は人よりデカイものが作りたくて、すごく大きいものを作りました。枠は彫刻の友人に頼んで工房で溶接させてもらったり。
──就職活動は?
阿萬●真面目にやりましたよ。就職の時も受験と一緒で、とにかくみんなが知ってるところがいいと思って。最初、博報堂の学内選考があって、課題を持って行って見せたんですけど、視覚伝達デザイン学科から順番に回ってくるんです。基礎デザイン学科の頃はもう面接官があくびとかしてて(笑)。つまらなそうに見てるんです。腹が立ったんですが、やっぱり課題だけ見せてもつまらないよなと思って。そこからまた真面目に自分の作品を作り始めて。でも、電通もダメでソニークリエイティブもダメで……。
──結局、就職先は?
阿萬●大きいところを狙ったけれど全滅で、段々腹も立つし、夏も暑いし(笑)。途中から考え方が「こういうところに入りたい」じゃなくて「こういう奴が来たら面白い」と思う会社がひとつぐらいあるだろうって方向にかわってきて。で、髪型なんかも普段のリーゼントに戻して、仲間と作ったスカジャンを作品として持って行って。
──自然体のオレを見てくれ、と。
阿萬●ええ。それ、やり始めたら急に評判がよくなって(笑)。僕の就職の頃からバブル崩壊だったらしく、同級生はひどいものだったのですが、100人くらいの規模の「システムコミュニケーションズ」という広告代理店に入れたんです。
阿萬●ええ。短大とかの連中に比べると時間があった分、バンドもちょこっとやったし、それ以外の時間も仲間がいて。いまはないですがファッション科の連中と遊んだりして、どんなものがカッコイイのか、どういう格好をしている奴がどんな音楽を聴いてるとか、そういうのを見る時間がありましたね。
──学科はグラフィックデザイン科?
阿萬●じゃなかったんです。基礎デザイン学科。試験で小論があって、作文が得意というのもあって、滑り止めで受けたらそこに受かったので。当時は2次志望で入った人が多い科でした。
──内容的にはどう違うのですか?
阿萬●理論が中心ですね。「作る」ために「考える」というよりは「考える」ために「作ってみる」という感じ。1〜2年はプロダクトもグラフィックもやるのですが、作りだして面白くなって「オッシャ!」というところで終わっちゃう。なので、できあがった作品だけ見ると正直あまり面白くない。卒業制作が論文の人もたくさんいるくらい。だいぶアカデミックなほうですね。
──じゃあ、いまの仕事的にはあまり関係ない?
阿萬●直接的にはあまり関係ないんですかね。課題でカッコイイものをつくった記憶がほとんどないですから。でも、そのストレスが僕の場合は外に向いたのかな。短大のグラフィックデザイン学科に行って、友達に頼んでシルクの大きい作品を作らせてもらったり。自分の作品を勝手に作っていたんですよ。
──どんな感じのものを?
阿萬●自己顕示欲の塊みたいなもの。自分の顔のB倍のポスターとか(笑)。あとは50'sが好きだったので、そういうもののパロディっぽい作品とか。だから卒業制作も学科的には理屈をつけないとダメなので、いろいろ理屈は並べたのですが、要は人よりデカイものが作りたくて、すごく大きいものを作りました。枠は彫刻の友人に頼んで工房で溶接させてもらったり。
──就職活動は?
阿萬●真面目にやりましたよ。就職の時も受験と一緒で、とにかくみんなが知ってるところがいいと思って。最初、博報堂の学内選考があって、課題を持って行って見せたんですけど、視覚伝達デザイン学科から順番に回ってくるんです。基礎デザイン学科の頃はもう面接官があくびとかしてて(笑)。つまらなそうに見てるんです。腹が立ったんですが、やっぱり課題だけ見せてもつまらないよなと思って。そこからまた真面目に自分の作品を作り始めて。でも、電通もダメでソニークリエイティブもダメで……。
──結局、就職先は?
阿萬●大きいところを狙ったけれど全滅で、段々腹も立つし、夏も暑いし(笑)。途中から考え方が「こういうところに入りたい」じゃなくて「こういう奴が来たら面白い」と思う会社がひとつぐらいあるだろうって方向にかわってきて。で、髪型なんかも普段のリーゼントに戻して、仲間と作ったスカジャンを作品として持って行って。
──自然体のオレを見てくれ、と。
阿萬●ええ。それ、やり始めたら急に評判がよくなって(笑)。僕の就職の頃からバブル崩壊だったらしく、同級生はひどいものだったのですが、100人くらいの規模の「システムコミュニケーションズ」という広告代理店に入れたんです。
次週、第3話は「打越俊明氏との出会い」を掲載します。
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
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[プロフィール] あまん・ともひろ●1970年福岡県生まれ。武蔵野美術大学卒業後、広告代理店勤務を経て、打越俊明が率いる「錦瓊」参加。97年に独立し「阿萬企画」を立ち上げる。CDなど音楽パッケージの他にイラストレーション、スタイリングの分野でも活躍。 |