第2話 就職と現実 | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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まざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はグラフィック・デザイナーの金松滋さん(metamo)を取材し、今日までの足跡をたどりま


第2話 就職と現実



金松滋さん

港区西麻布の仕事部屋にて、金松滋さん


グラフィック・デザイナーとして出帆



──アニメーターを諦めて、その後は?

金松●当時バブルの時代だったので、世の中的にはデザイナーズ・ブランド、広告文化が華やかな頃でした。糸井重里さんや仲畑貴志さん、川崎徹さん……ようはカルチャーの匂いがするクリエイターが活躍なさっていて。本当は映画とか映像関連に進みたかったのですが、実家の経済力を考えると、自分の食い扶持ぐらいは稼がなくてはならないと思って。当時の映画業界だと多分入っても厳しいだろうなと思い、インダストリアルとグラフィックだったらグラフィックのほうが“なんとなくかっこいいかなと方針を転換しました。

──インダストリアルにも興味が?

金松●ほんとは絵が好きだから、カーデザインのイメージ画みたいなほうが性に合ってるかと思って、マツダに見学に行ったんです。当時、RX7という車が好きだったから。でも、そのときに高校卒業だと、いわゆるエクステリアのほうのデザイナーにはなれなくて「クレーモデラーどまりだよ」と言われて。根本からデザインできないなら嫌だなと思って。だったらかなり安易な気持ちで「グラフィックにいきたい」と先生に言ったんです。

──大学に進むという考えはなかったんですか?

金松●なかったですね。もう早く社会に出て働きたくて。工芸高校である程度、デザインの勉強は平たくしちゃったので、あとはもう習うというより、実際どういうことをやるのか……ただ、いまみたいなグラフィック・デザインを続けているとは思ってなかったですね。なんとなく3年から5年ぐらい、ある程度やれば、結構上に行けるかなっていう時代の空気もあったので。身の程知らずな、まったくバカな高校生だったんですけど(笑)。そういう意味では広告はなんとなく楽して稼げるんじゃないかと、若干よこしまな考えの方が大きくあって(笑)。サイトウマコトさんとか戸田正寿さん、井上嗣也さんといった、ああいうアート的な表現が仕事になるんだというのと、それがものすごく世の中を動かしている感じがあったので、広告デザインってカッコイイなっていう感じで、そっちのほうに進路をきったんです。

──で、就職活動を?

金松●したんですけど、言ってしまうと高校の課題ぐらいで、自分の作品だけ持って行ってもどこも普通は相手にしてくれないじゃないですか。学校が斡旋するような、正直しょぼい事務所の紹介を受けて、なんとかもぐりこんで就職しました。そこで1日中、紙焼きとかトレースとかトンボ切りとか、その当時はトレスコ使ってアタリをつけたり、1年半ぐらい基本の基本を叩き込まれて。実際、やっている内容は三菱トラックの海外輸出向けのカタログだったり、通信講座の新聞15段や雑誌1ページ……とにかく情報が詰まった広告とか、あと学習雑誌の『よいこ』の付録を作っているような事務所でした。でも、人手もなかったせいで、その1年半の間にすぐ任されるようになったんです。逆に任されたものに関しては担当者と仲良くなったり、自分でコピー書いたり、イラストもイラストレーターに発注しないで自分で描いたりして、予算はないけど好き勝手やっちゃえって。

──グラフィック・デザイナーとしてデビューですね。

金松●ええ。でも、なにしろそういう媒体なので、多くの人に見られるチャンスも少ないじゃないですか。当時主流の業界誌の『コマーシャルフォト』だったり『デザインの現場』とかを見ると、どうもサイトウさんや戸田さんがやっているステージとは違う。同じグラフィック・デザイナーになったのに、どうも俺はそっち側には行けないんじゃないか……という不安があって。最初は18歳ぐらいで仕事を憶えることがプレッシャーだったので、それで精一杯だったのですが、1年半ぐらい経つと仕事も指定の仕方も憶えたので、やっている仕事が人に届くか届かないか……いくらアラビア向けのSPやカタログを一生懸命作っても、誰もわからない。それで悩んだ時期があり、結局1年半ぐらいで辞めてしまったんです。その後、3ヶ月ぐらいバイトしながら映画や小説ばかりを見まくっていた時期があって、母親にはかなり心配されていました。


「安野モヨコ「オチビサン 第1巻」

映画「それでも僕はやってない」ポスター

金松さんの仕事より
上段:安野モヨコ「オチビサン 第1巻」 cd:金松滋/ad:冨岡祥雄/d:岩城佑介・米田龍平/朝日新聞出版より絶賛発売中!
下段:映画「それでも僕はやってない」ポスター cd+ad:金松滋/ad+d:佐藤直子/p:瀧本幹也/c:荘司 大/2007年/東宝



再就職で壁にぶち当たる



──その後は?

金松●ブラブラしている時、たまたま高校の同級生から紹介してもらったのが、博報堂の仕事を多くやっていたプロダクション。やっている仕事も「これ知ってる」という感じのところで、どうにか潜り込ませてもらったんです。そこで3年ぐらいお世話になって、初めて広告というベクトルで版下作り、文字を組むとかレイアウトするとか、あとキャンペーン系の仕事のワークフローも教えていただいて。いまみたいにコンピュータ・カンプじゃなかったので、全部手で起こしたり、何色も使って、いまでは考えられないような手間をかけたラフ作りをしてました。そこでメジャーなクライアントの仕事に携わることができたので、広告の基本を憶えることができたんです。

──野望に近づいた、と。

金松●でも、なかなか自分のアイデアが最終的に残ったり、思ったことが原稿に反映されることが少なかった。代理店の中でクリエイティブ部署があって、そこが下書きしたものを仕上げていくような作業が多かったので、自分の中で「こっちのほうがいいんじゃない?」と思うことが紙面に現れてこないというのが3年間の中で結構あって。それでも自分の中では、有名なデザイナーの真似をしたりして「これは誰々風」とか、勝手に思って作っていたり。とにかく案の中にひとつは自分がやりたいような雰囲気のカンプを作っていたら、チャンスが到来したんですね。

──どのような?

金松●PCの業界誌だったのですが、ちょうどMacが台頭してきた頃。作業はまだしていないのですが、Mac関連の広告ページ見開きを任されるようになって。それが結構レスポンスよかったんです。広告に応募券をつけてレスポンスをはかるような仕組みだったのですが、ダイレクトに問い合わせの数が出てくる。自分が担当した広告が、いつもの3倍くらいの反応があったと。それで「俺いけるかも」と思って、そこでの修業期間もある程度見えたので、もうちょっと自分が望むことがダイレクトにできる環境に身を置きたいと考え、また『コマフォト』を見たり『ADC年鑑』を見たり、当時の業界誌をくまなく見て、プロダクションでも若手にチャンスがありそうなところを探し始めたんです。

──ステップアップを計ったわけですね。

金松●当時はまだ徒弟制度バリバリの頃ですが、僕の年齢が22歳ぐらい。大学卒業して1年ぐらいの年齢ですが、一応経験は5年ぐらいあるので、それなりにイケるかと思ったんですけど、なかなか高卒では代理店とかはハードルが高い。で、逆に若手にチャンスがありそうで、面白そうなプロダクションの門を叩いたんです。たまたまそこも、あとから聞いたら結構な倍率だったらしいのですが、なんとか潜り込めて。ADとしてやったるぜと勝手に意気込んで入ったのですが、まったく全然通用しない。それまでは博報堂がお題を出して、ある程度情報を整理した状態、博報堂の仕切りで末端に近い仕事をこなしていたに過ぎなくて、一から作るレベルでのコントロールはできてなかったんですね。

──壁に当たった、と。

金松●ええ。でも、その事務所で一からやるようになり、企画そのものや撮影の手配から予算組みに始まり、一生懸命頼めば有名なカメラマンもギャラが少なくてもやってくれる場合があるとか、自分たちがアイデアを持ってセッションすればクライアントを動かせるとか憶えて。それまでは雑誌とかを見てるだけなので、有名なスタッフをキャスティングしても俺らには払えないという不安があったのだけど、その事務所に入ったことで、こちらの熱意さえキチンと伝えればやってくれる人はいるし、そのぶん自分たちも汗をかいて、その人たちがいいと思える作品作りができれば、面白いモノって作れるんだなって実感しました。そこで働いた4年間はひたすら、かなり厳しい労働時間を費やしてましたね。


次週、第3話は「独立に向けて」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)


金松滋さん

[プロフィール]

かねまつ・しげる●1967年東京都生まれ。都立工芸高校デザイン科卒業後、デザイン会社数社での勤務を経た1995年、友人とともに「オーファイヴ・リミックス」を立ち上げ独立。2002年、現在主宰する「メタモ」を設立し、クリエイティブ・ディレクターとして映画宣伝、広告、書籍装幀など活動中。

http://www.metamo.co.jp/




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