第3話 独立に向けて | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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まざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はグラフィック・デザイナーの金松滋さん(metamo)を取材し、今日までの足跡をたどりま


第3話 独立に向けて



金松滋さん

港区西麻布の仕事部屋にて、金松滋さん


パートナーと共に



──その後、独立に向けて動き出したのですか?

金松●三度目の就職先での4年間、ちょうどバブルが弾けて、デザイン界にもMacが導入されつつありました。時期を同じくして、クライアントも「いままで通りではなくなってきたな」と肌身に感じてきていたんです。僕の指向も、20代中盤までは「メジャーなクライアントでB倍ポスターを作るのがカッコイイ」みたいな思いが強かったのですが、仕事をやっていくうちに段々、CDジャケットだったりエディトリアルのほうが表現の自由度が高いなと。逆に「そっちのほうが広告よりも、軽やかにかっこいいことがやれているじゃん」という感覚もでてきて。

──80年代末から90年代初頭にかけての時代ですね。

金松●当時、広告業界の主流は様式美の世界で、フォーマットのきれいさや『年鑑美術』的な価値観が大きかったと思うんです。それこそ『ADC年鑑』や『JAGDA年鑑』みたいなものに掲載されるものに価値がある……みたいな感覚。それは当然自分の中にもあったのですが、次第にパーソナルなもの(自分が見てかっこいいもの)に変わってきて。それこそファビアン・バロンがやっていた『イタリアン・ヴォーグ』や『ハーパース・バザー』だったり、信藤三雄さんがやっていたピチカート・ファイヴのジャケットだったり。そうしたものの表現の自由度をうまく広告に取り入れられないかな……と思っていて。

──それが独立の動機ですか?

金松●ええ。会社に勤めている以上、どうしても最終ジャッジ権は経営陣にあるので、自分がやりたいと思うものはさておき、具体的な仕事は師匠のアシスタントにつくことがメインになりますからね。辞めたのは27歳かな。その前にけじめというか、その会社で何かの賞を穫ったら辞めようと思っていたんです。で、最後にアパレルメーカー「ナイスクラップ」の仕事で雑誌の賞をいただいて、ある程度結果が出せた。で、今後どうしようと思ったときに、独立のパートナーがなぜか近所にいたんです。

──誰ですか?

金松●工芸高校の同級生で『榮太楼』という和菓子メーカーの宣伝部にいたんですけど、その後、IR関係の広報誌などを作っていて、彼も自分がやりたいことと会社の方向が違うと煮詰まっていて。最初は休日になると集まって、朝日広告賞とかのコンペ作品を一緒に作っていたんです。それ以前、デザイン事務所を作るとなるとトレスコや暗室がなければならなかったり、わりかし金銭的なハードルが高かった。でも、Macが出てきたことによって「なんかできるんじゃないか」と期待が膨らむんですね。一揃い中古で買えばなんとかなるんじゃないか……と、まったく世間知らずの若造なんですけど。

──そして二人で組んで?

金松●はい。ちょうどタイクーン・グラフィックスとか、ユニットで活躍する方々も世の中に出てきていたので、もう「この波に乗らなきゃ」って雰囲気で(笑)。それで「オーファイヴ・リミックス」を立ち上げたんです。


映画「スウィングガールズ」ポスター&パッケージ

「クイズショウ」ポスター&パッケージ

「NICE CLAUP」雑誌広告

金松さんの仕事より
上段:映画「スウィングガールズ」ポスター&パッケージ cd:金松滋/ad:金松滋+北本浩一郎/ph:上原勇/2004年東宝 Blu-ray Disc cd:金松滋/ad:金松滋、佐藤直子/d:桐原紘太郎/2008年10月24日より全国一斉発売!
中段:「クイズショウ」
ポスター&パッケージ cd:金松滋/ad+d:岩城佑介/p:森谷雄/ph:星野麻美/DVDボックスセット:2008年10月22日より全国一斉発売!
下段:「NICE CLAUP」雑誌広告 cd+ad+d:金松滋


地道な仕事が生んだ実績



──場所は?

金松●最初は僕の亀戸の自宅でした(笑)。

──仕事はあったんですか?

金松●いやー、最初の1年はほとんどなかったですね。営業もしているようでしてなくて、ほんと認識が甘かった。考え方としてはシンプルで「自分たちの年齢給ぐらいあれば生活できるよね」という安易な気持ちで独立したんですね。でもクライアントに挨拶して、きちんと段取り組んで独立したわけではなかったので、最初の1年は年収も3分の1位にダウン。これで続けていくのは厳しい……という局面もありました。でも、なぜかわからないけど僕と彼は楽天的で、それでも毎月1万円ずつ積み立てしてたんです。で、1年経ったとき、それが12万円になった。

──使い道は?

金松●とりあえずニューヨークでも行こうか、と。訳わからない発想ですね(笑)。たまたま当時留学していた後輩もいた事もあって。そこでソーホーやチェルシーとか、若いアーティストやデザイナーが事務所を構えていて、いまはだいぶ変わりましたが、当時はかなりの勢いがあった。そうしたファクトリーを見学させてもらったり、いろんな人の話を聞く機会があったんです。で、そのときやっと「場所って結構、重要じゃん」と気づいて。どうも亀戸って場所がよくないのでは、と。

──ハハハ。

金松●それで帰国した早々、不動産屋を巡って。神宮前とか渋谷とか銀座……いまそうでもないけど、我々の世代だと銀座ってポイントなんですね。その辺りがいいかなと思って物件を探していたんですけど、とんでもなく家賃が高い。いままでの3倍〜5倍になる。でも、意外なことに西麻布で、なんとか16万5千円で貸してくれるワンルームを不動産屋が見つけてくれて。それでも、亀戸よりもずっと高いので、すごく躊躇したんです。けど「これでダメなら俺らもダメでしょ」って話になって。

──思い切りましたね。

金松●ええ。最初の1年間、お金は稼げなかったけど、逆に手抜きをせず一生懸命やっていたので、それなりのレスポンスは入り始めてたんです。で、2年目からは仕事が増え始めて、次第に二人でこなせなくなってきた。

──どんな仕事が多かったですか?

金松●映画のパンフレットや化粧品の広告やリーフレットですね。もともと僕のいた会社が映画のポスターや宣伝周りをやっていたんです。最初からそっちをやりたかったけれど、さすがに1年目で抵触するわけにはいかない。いまの若い子はみんな結構へっちゃらでやっちゃいますが、我々の頃は仁義を切らないと後々業界できつかったですから。あまりブッキングしないようなフィールドで……と頑張って、まぁ実際、それでも難しかったんですけどね。

──でも、結果は残せた、と。

金松●ええ。1年やって実績ができてきたんで、映画の宣伝部の人から「そろそろ宣伝のほうもやってくれないか」という話が少しずつ出てきたり、その仕事を見てくれた方が人づてで訪ねてきてくれたり、少しずつ仕事の内容も好転してきたんです。やっとこれは食えるかな、と。ただ、あまりにも忙しすぎて、寝泊まりも事務所でするような生活。1〜2週間ぐらい家に帰らないとか、結構ありましたね。事務所から、いまはなき麻布十番温泉まで行って風呂に入って、また仕事……。でも、そのときは仕事があることの有り難さが身に染みましたね。小さな仕事でもキチンとやっていい結果を残せれば、それが自分たちの宣伝ツールになると自覚する事ができました。


次週、第4話は「夢はまだ終わらない」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)


金松滋さん

[プロフィール]

かねまつ・しげる●1967年東京都生まれ。都立工芸高校デザイン科卒業後、デザイン会社数社での勤務を経た1995年、友人とともに「オーファイヴ・リミックス」を立ち上げ独立。2002年、現在主宰する「メタモ」を設立し、クリエイティブ・ディレクターとして映画宣伝、広告、書籍装幀など活動中。

http://www.metamo.co.jp/




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