第2話 就職、そして独立 | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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様々なジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ、今回は国内外の映画ポスターやチラシ、プログラムなどの宣伝デザインを数多く手がける岡野登さんを取材し、その経歴から現在に至るまでの足跡をたどります。

第2話 就職、そして独立


岡野登さん

岡野登さん

メーカーとプランニング事務所での経験


──大学卒業後の就職は?

岡野●最初は、大手家電メーカーの宣伝部門のデザイン会社でした。それまでのアルバイトが最初から最後まで通してやるという小規模のスタンスだったので、逆に大きな組織を経験したかったんです。仕事と企業と組織が大きくなった時、自分のもってるデザインで「どこまで関われるのか」「能力はどこまで通用するのか」と。

──どれぐらい在籍を?

岡野●1年ちょっとです。同期入社の人の中でも、かなり早い時期に単発の仕事を任せてもらえるようになり、高い評価も受け、「さあ、これからだ」という時に、上司の不祥事に巻き込まれ、会社の対応の不信感と若さと勢いで結局辞めることになったんです。5年くらい能力を磨いて、お金を貯めて次にステップアップという予定が大幅にずれてしまいました。

──その後、すぐ独立を?

岡野●いいえ、たまたま大学の知人が勤めていた、プランニングを中心とした事務所に転職しました。代理店並みにイベント・プロデュースや雑誌編集、制作から商品企画などに幅広く関わっていて、そこのデザイナーとしてです。かなりアートやカルチャー色が強いのが特徴で、映画や演劇、バレエ、展覧会の宣伝物や、写真集など、いまの仕事に繋がるものを初めて手がけるようになった。メーカーの大量生産のモノを広く売る宣伝から、個人の好みや表現で世の中に感覚で訴えかけるように変わりました。

──もともと映画は好きだったのですか?

岡野●子ども時代はよく観に行ってましたが、中学?高校で部活が忙しくなってからは行かなくなってました。でも大学入学後、映画好きの友人と知り合うことで行き始めたら、その人よりハマって、逆にブランクがあったので一気にのめり込みました。大学が国分寺なので、吉祥寺の映画館のオールナイトによく通っては、1度に4本ずつ観てました。

──それまでの広告的な仕事と映画の趣味が、その時期に合体したわけですか?

岡野●いや、それでもまだ映画の仕事がメインになるなんて考えてもいなかった。いろんな仕事の中の何本かで、映画をたまたまやっていたくらいです。ただ、ほかの仕事に比べてなんとなく映画との相性は良いかなと思ってました。

──では、現在の状況は想像もできなかった?

岡野●そうですね。当時は、もうちょっとノーマルなデザインの仕事をするようになると思っていました(笑)。でもフリーになって、広告代理店や企業の仕事などを数々こなしてみたのですが、映画の仕事が唯一、消耗するだけではなかった。どんな映画でもやればやるほど、いろんなものを吸収できたんです。毎回、影響や情報を受け、それを還元できるサイクルみたいなものができたから、仕事量が増えても必ず残るものがあってアイデアが枯れるということは一切ない。

──それがいま、扱う映画の仕事量にも現れていますね。

岡野●どの時代、どの国のどういう映画でも、全然違うジャンルの作品ばかりだから、こちらも勉強しなくてはならないことが多いです。まだまだ自分は知らないことばかりだ……と。それは1年や2年でマスターできるものではない。映画の歴史も長いので、やればやるほど新しい発見がある。逆を言えば、やってもやっても完成形はないんです。いま作っている間にも、映画そのものが進化し、ドキュメンタリーや3Dアニメなどまで映像表現も多様になっている。当然デザインも進化していかなければならないと思っています。


恋愛睡眠のすすめ(2006年/アスミックエース)チラシ



岡野さんの最近の仕事から
恋愛睡眠のすすめ(2006年/アスミックエース)チラシ
洋画作品の邦題ロゴは、前回紹介した『スパイダーマン』のようにオリジナルの様式に沿うものから、このように日本独自のものまで、多様なレンジを求められる











映画宣伝物の“旧弊”と単館の登場


──独立は?

岡野●30歳のとき、結婚と同時に独立しました。さっきも言ったように、学生の頃から独立志向を叩き込まれていましたし、あと何年やっても状況は変わらない。じゃあ一人でやってみて「ダメならダメで仕方がないと諦めればいいか」と。タイミング的にもいいのでは……と考えたら、独立した年の半年後にバブルが弾けたのですが(笑)。

──仕事は?

岡野●当然、あまりにも世の中が激変して、それまでのように美術展など企業が出資してサポートするという動きがピタッと止まってしまった。映画そのものは万年不況業界みたいなところがありましたが、それでも製作中の作品が中止になったりしてました。不況になると真っ先に宣伝費や広告費が減らされますよね。企業の支援がないとなかなか成り立たないものがあったので、そういう意味では見通しはかなり暗かった。

──営業などは?

岡野●全然しませんでした。とりあえず知り合いの伝手で来た仕事をこなしていて、それだけでも少しずつ広がっていきました。広告代理店の仕事は割がいいのですが、年間キャンペーン規模の大きな仕事だと、グラフィックの役割はすべてが決まった後のものとあわせて作らないとならないことが多い。そう考えると、自分に合うのはゼロから考えて作れる映画の仕事だったんです。営業サイドではなく直接宣伝の人とやりとりできるし、毎回毎回テーマが違うという面において。でも、いろいろ提案しないとなかなか難い。それまで、かなり頑固な業界でしたので。

──以前は結構、カッチリ決められた世界でしたよね。

岡野●当時はみんながよく目にするおしゃれな広告とは違って、映画はあきらかにわかりやすいベタな表現がほとんどでした。たとえば、いまでは全然珍しくないですが、映画の写真以外でイラストを使ったり、新たに撮り下ろししてビジュアルを一から作るみたいなアイデアを何度も提案しました。いわゆるイメージ広告ですね。ほとんどボツってましたけれど。

──いつぐらいから風向きが変わりました?

岡野●80年代末から徐々にですね。2番館3番館などの名画座がレンタルビデオの影響で消え、渋谷のシネマライズなど、単館の劇場が登場するようになってからです。それ以前はチェーン系列で上映するメジャー作品、あるいはヨーロッパ系の地味で難しそうな作品が細々と公開する感じでしたが、サブカルチャーが注目されるようになり、流行に敏感な人たちが単館でしか観られない作品に反応しはじめて流れがガラリと変わった。劇場に行列ができ、若い観客を繋ぎ止めるために常に新しい刺激が必要になったから、当然、宣伝方法も見せるポイントもずれてきたわけです。渋谷など都市部の映画の役割が変わり、映画とお客さんの距離が縮まったことで、セオリー的な宣伝が役に立たなくなってきたのだと思います。

──そこで“デザイン”が求められた、と?

岡野●ええ。ただ、観客も宣伝も急激に変わっていきましたが、それでも自分はもっともっとやれる余地があるのでは?……と思っていました。


天然コケッコー(2007年/アスミック・エース)チラシ


岡野さんの最近の仕事から
天然コケッコー(2007年/アスミック・エース)チラシ
文中での発言のように「ビジュアルを一から作る」「いわゆるイメージ広告」の手法が邦画に根付いてきた好例だ









次週、第3話は「映画宣伝デザインの充実感」についてうかがいます。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)


岡野登さん

[プロフィール]

おかの・のぼる●1961年埼玉県生まれ。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン科卒業後、企業デザイン部門、PR会社での勤務を経て、91年に「Cipher.」を設立。ハリウッドのメジャー作から単館系作品まで、数多くの映画宣伝を手がける。その他、広告、テレビ番組の宣伝、装丁、CDやDVDジャケットなどで活動中。



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