第2話 日本デザインセンターに入る | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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まざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はアート・ディレクターの駿東宏さんを取材し、今日までの足跡をたどります


第2話 日本デザインセンターに入る



駿東宏さん

神宮前「エスジー」にて、駿東宏さん


仕事に明け暮れた学生時代



──高校時代、美術の勉強は?

駿東●美術部には入ってませんでしたが、デッサンは高校1年から始めてました。学校と並行して夜、デッサン教室に通っていたんです。やる気だけは、いまの一千倍ぐらいあったんじゃないかな(笑)。

──卒業後の進路は?

駿東●1年浪人して、武蔵野美術大学のグラフィックデザイン科に入学しました。でも浪人時代は迷いがありましたね。それまでグラフィックを受けるつもりがなくて、志望は日本画だったんです。ロジャー・ディーンや横尾忠則さんが憧れだったので、まず絵を描きたいと。相性としては油絵では絶対になかった。まず乾くのに待ってられない。

──せっかちなんですね(笑)。

駿東●うん。だって、乾くのに1〜2週間かかるわけでしょ。薄く描くとか方法はあるけど、小さい頃からやっていたから水彩のほうが好きだった。

──それがなぜ、グラフィックを?

駿東●目標がはっきりしたんですね。大学を卒業したらどこかの会社に入って、3〜4年で独立して事務所を持つ……と。将来設計というか、自分の憧れている人がやってきたことをやりたかったんです。横尾さんだと、まずファッションがちゃんとしてて、海外によく行ってて、英語が喋れて、グラフィックデザインがかっこいい。で、音楽通である。それは、いまみたいにジャンルもなかった。結局そこが問題で、グラフィックデザイナーってオールマイティじゃなければならなかったんです。広告ができれば映像もできて、映画の宣伝もやれば音楽のジャケットもやる。というのがデザイナーで、いまみたいにセグメントされていない。結局、なんでもやりたかったんですね。

──学校の勉強は?

駿東●あまり記憶に残ってないですね。あまりいい学生ではなかった。もう仕事してました。大学1年からディスプレイだとか、地図描きとかのアルバイト。デパートのキャンペーンのプレゼンとかもやってたんです。そのころ、学校の友人4人組で「スーパーフォー」という名前で仕事やったり、展覧会もやったり。その4人で一緒に吉祥寺のアパートに住んでたんですよね。

──トキワ荘みたいな?

駿東●2LDKの長屋みたいなところでしたよ。みんな金持ちだったけど(笑)。それが70年代なかばですね。


「PARCO」広告キャンペーンセイコーシャリオ「ノワール」広告

「IM_magazine」AD

駿東さんが所属した日本デザインセンター/ブレックファースト時代の仕事から
上左/「PARCO」広告キャンペーンB全ポスター(1979年)
バイトで入ったNDCに正社員としてサイトウマコト氏に就き、2年目にNDC(ほぼ公認)で制作したポスターを手伝う。セレクトに1ヶ月、色校正5回以上と記憶。
AD:サイトウマコト カメラ:ブルース・ウェーバー メイク:渡辺サブロオ D:駿東宏
上右/セイコーシャリオ「ノワール」雑誌広告(1982年)
サイトウ氏との仕事ぶりが認められたか? 奇跡的に超難関の「Breakfast」に入社。1年目の作品。
AD:石岡怜子 カメラ:操上和美 メイク:野村真一 D:駿東宏
下/「Issey Miyake the shirts」雑誌広告(1984年)
イッセイ・ミヤケのライセンス雑誌広告。Breakfast、3年目で最後の仕事。イッセイ氏、操上氏、杉本氏など先輩方の熱さに負けないようにするだけで精一杯だった時期。
AD & Copy:杉本英介 カメラ:操上和美 D:駿東宏


サイトウマコト氏との出会い



──就職は?

駿東●普通は3年ぐらいから就職活動やるでしょ。僕はやらなかった。というのも3年のときに、人の紹介でサイトウマコトさんと出会ったんです。サイトウさんが戸田正寿さんと一緒にやっている頃。で、戸田さんが抜けて、ちょうどパートナーを探していた。僕はまだ学生だったけど「明日から一緒にやらないか」と言われて、それから4年ぐらい一緒に仕事していたんです。

──印象はどうでした?

駿東●やっぱりね、25歳ぐらいで独立する人は、とんでもない人だってことがわかった。つまり千人デザイナーがいたら、3〜4人しかできない。そのぐらい厳しいものだとわかったんです。人間関係や友達付き合いで仕事をしているレベル、もしくは企業を辞めてそこの仕事をもらう下請け的な人は結構いるんだけど、やっぱり自分のブランドで食べていくような人は、ほんの一握りしかいない。で、サイトウさんが当時いた「日本デザインセンター」には、伝統的に年に1人ぐらい、そういう人がいるんです。それはサイトウさんの他に、戸田正寿さんであり、井上嗣也さんであり、遡ると横尾さん、田中一光さんであった。デザインセンター自体、優秀な会社ではあるけど、そのなかで独立する人がいる。それになりたいと思うようになりました。

──サイトウさんに声をかけられてセンター入りしたのですか?

駿東●最初、バイトで入りました。1年間、サイトウさんの下で働いた後、試験を受けさせられた。あそこはバイトが常時10人ぐらいいて、新卒と一緒に試験を受けさせるんです。で、ダメなら辞めさせちゃう厳しいところ。それに運良く残った。あと僕の場合、契約じゃなくて正社員になれたんです。それは多分、1年間センターでやってきたという実績があったからなんでしょう。

──仕事の内容は?

駿東●センターには1部2部があって、1部のクライアントがトヨタ。2部がセイコー、ワコール、伊勢丹、新日鉄、野村証券、ニコンとかの企業。で、僕はセイコー、ワコールのチームでした。サイトウさんがセイコーのキャンペーンを一人で勝ち取ってきて、それを僕がアシスタントしてたんです。で、アシスタントは1年で卒業した。

──学校に通いながら?

駿東●3年の在学中にセンターに入って、学校は中退しちゃったんです。学校からよく電話ありましたよ。「センターに君が入れるわけがない」って(笑)。


次週、第3話は「そして独立」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)


駿東宏さん

[プロフィール]

すんとう・ひろし●1955年、東京都生まれ。武蔵野美術大学を中退後、サイトウ・マコト氏に師事。日本デザインセンターを経て、ブレックファーストに勤務。85年「スントー事務所」として独立後、佐野元春やオリジナル・ラヴをはじめとする音楽プロダクト、雑誌、映画広告などを手がける。現在「エスジー」(Sunto Graphics)を主宰。

http://www.sg-tokyo.com




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