第4話 佐野元春さんとの出会い | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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まざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はアート・ディレクターの駿東宏さんを取材し、今日までの足跡をたどります


第4話 佐野元春さんとの出会い



駿東宏さん

神宮前「エスジー」にて、駿東宏さん


スントー事務所のスタート



──独立直後から仕事は順調でしたか?

駿東●いや、何もやることがなかった。最初はヒマだから事務所ゴッコしてましたよ。青山1丁目に部屋を借りて、机3つ並べて、電話引いて、暗室があって……自分の好きなポスターを壁に貼ったり。一人でそういう日々がしばらく続きました。半年後、なんとなく仕事が入り始めてアシスタント入れたんですけど、あまりにヒマだったから趣味で本を作ってましたね。

──初めての仕事は?

駿東●やっぱり友達から来る仕事ですね。知り合いから紹介してもらった仕事ですね。大山千賀子さんと残間里江子さんが関わっていた『ブライダル・パスポート』という雑誌のキャンペーン。B倍ポスター1枚作って100万円くれたんですよ。バブルというか「ああ、これぐらい貰えるのか」と。でもアシスタントがいるから、すぐなくなっちゃうんですよ。まあ、その頃は事務所の家賃も安かったから、なんとかなったけど。

──屋号は?

駿東●もう「スントー事務所」と名乗っていました。サイトウさんがカタカナだったのと一緒で(笑)。

──営業は?

駿東●全然してないです。ただ、半年ぐらいして困ったというか、さっき話した自分で作った本(グレイ)を書店に売りに行ったりしてたんです。で、それを佐野元春さんが偶然見てくれた。結果的にそれが営業媒体だったのかな。僕は仕事自体が営業だと思っているんです。ひとつの仕事を見てもらって、次の仕事に繋がるものだと思うから、なにか作れば繋がるだろうと。

──で、それを佐野さんが見て?

駿東●その日の夕方にやって来て、10年間頼まれたんですよ。ちょうど「ビジターズ・ツアー」をやっている最中。佐野さんいわく「自分の計画をやるにはグランド・デザイナーが必要で、すぐやめてもらうと困るんだ」と。

──ちょうど佐野さんの「エムズ・ファクトリー」立ち上げの頃ですよね?

駿東●ええ。だから最初に手をつけたのがロゴマーク。その次に『エレクトリックガーデン#2』を作って、佐野さんの責任編集雑誌『THIS』やシングル3連発を手がけた後に、アルバム『カフェボヘミア』でした。

──それ以前、音楽プロダクトは手がけていたのですか?

駿東●友達レベルでジャケットは結構作っていました。如月小春(&坂本龍一)さんとか、ちわきまゆみさんも知り合いで、ジャケットずっとやってて。メーカーからの単発も多かった。でも、アーティストとガッツリやるのは佐野さんが初めてでした。レコード会社からもらう仕事だと思っていたんだけど、そういう単発の仕事には不完全燃焼な気分があったんです。転々とやってる気がして。でも佐野さんから「一緒にやらないか」という仕事は、かなりまとまった案件だったので、その後5年ぐらいの間にかなりの量を手がけましたね。

──そこで駿東さんがやりたかったことと音楽が合体して。

駿東●初めてね。自分のカラーがこうではないか……とわかったのが、そこですね。


代官山に事務所を構えていた時代(1991〜2003年)の仕事より
佐野元春『Sweet16』駅貼りポスター

佐野元春『Sweet16』駅貼りポスター(1992年)
コラージュ:駿東宏/水戸部博
アクト・アゲンスト・エイズ・ブックレットザ・ブーム『極東サンバ』ツアーブック

左/アクト・アゲンスト・エイズ・ブックレット(1993年)
全国規模で開催されたエイズ問題啓蒙イベント。第1回目は横浜にて佐野元春さんが仕切り、ブックレットも制作された。写真:松本康男
右/ザ・ブームのアルバム『極東サンバ』のツアーブック(1994年)
ステージ・映像・アルバムをリンクさせた大プロジェクトで、ブラジルまで拡大していった。写真:ブルース・オズボーン

Heat Wave『TOKYO CITY MAN』

Heat Wave『TOKYO CITY MAN』(1996年)
横尾忠則さんに描いてもらうためにアトリエでライブを敢行。イラスト:横尾忠則
のっこ『ベランダの岸辺』

のっこ『ベランダの岸辺』(1998年)
イラストレーターにロケ同行してもらって完成させた。イラスト:スズキエミ


エディトリアル、DTP導入……



──以降、仕事も広がって?

駿東●その後、雑誌『03』ですね。89年の創刊でしたが、手をつけ始めたのは87年。創刊準備に2年かかったんです。それも副編集長が『THIS』をよく見てくれていて「参加しないか」という話になって。準備期間中は1ヶ月に1回打ち合わせがあって、ラフやカンプも作っていたんです。

──エディトリアルも、ガッツリやるのは初めてですよね?

駿東●ええ。その前の『THIS』は一人でやってたんです。アシスタントが材料を作って、レイアウトは触らせなかった。指定の準備をするのがアシスタントで、実際にレイアウトを引くっていうのは絶対にさせなかった。そうやっていたから時間もかかる。いまはDTPでフィニッシュ、文字直しまでやるじゃないですか。でも指定のやり方であれば、材料をバーと集めて一気に集中して、1日で100ページ以上できますよ。

──アシスタントも増えて?

駿東●『03』のときは最大7名いました。いまサイレント・グラフィックスで活動している副島満が、当時のチーフ・アシスタントだったんです。

──『03』の休刊後は?

駿東●収入源の『03』がなくなっちゃって、どうしようかと思っていたら『03』を見ていた『ニューズウィーク日本版』の編集長が「ぜひやってほしい」と。で「世界のニューズウィークの中で一番カッコいいものを作りたい」と言ったんだけど、そんなのできるわけないんですよ。フォーマットが決まってるから。2年契約したんだけど、うちにいたアシスタントが独立したから任せてました。

──そろそろDTPも?

駿東●最初に導入したのは91年かな。事務所にMac1台。最初はメールやりたかったんですよ。外国の人とおつきあいしていると「なんで日本はメール送れないんだ?」と聞かれて。よく名刺にメアドが書いてあるんだけど、その頃はまだ日本では普及してなかったから。全面的にDTPを整備したのは、事務所を代官山に移転した94年頃ですね。第3期『THIS』の制作のとき、一人のアシスタントがあまりに1台を独占していたから、だったらみんなで一気にやっちゃおうと。それまではお金がなかったわけではなくて、アナログでやるほうが楽しかったんですよ。

──違和感があったのですか?

駿東●ありましたよ。第一にアシスタントがなにやっているか、わからない。ネットでエッチなものを見てたりするし(笑)。で、最終的に上がればいいじゃないかって雰囲気になる。一人でなんでもやれるようになると、やっぱりデザイン的に不健康なんです。どんどんのめり込んで、周りが見えなくなるし。結局、一人で作るのはファインアートになっちゃうから。やっぱりコミュニケーションして、デザインパートナーを作るべきだと。


次週、第5話は「現在、今後の形」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)


駿東宏さん

[プロフィール]

すんとう・ひろし●1955年、東京都生まれ。武蔵野美術大学を中退後、サイトウ・マコト氏に師事。日本デザインセンターを経て、ブレックファーストに勤務。85年「スントー事務所」として独立後、佐野元春やオリジナル・ラヴをはじめとする音楽プロダクト、雑誌、映画広告などを手がける。現在「エスジー」(Sunto Graphics)を主宰。

http://www.sg-tokyo.com




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