第3話 そして独立 | デザインってオモシロイ -MdN Design Interactive-
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まざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はアート・ディレクターの駿東宏さんを取材し、今日までの足跡をたどります


第3話 そして独立



駿東宏さん

神宮前「エスジー」にて、駿東宏さん


全然苦にならなかったアシスタント時代



──大学中退して働くことに不安は?

駿東●いや、なるべく早く社会に出て働きたかったですから。学校もそんなに面白くなかったし。まあ友達がいたぐらいで。

──現場で仕事した方がいいと?

駿東●うん、そっちのほうが全然いい。

──サイトウさんの印象は?

駿東●とにかくスゴい人。たとえば夜7時に仕事が終わって、家に帰ってメシ食って寝ようとするじゃないですか。そうすると夜中に「来い」って(笑)。深夜1時ぐらいとか、平気で呼び出されましたよ。

──でも、そこで叩きこまれた?

駿東●ええ。最初は若干、抵抗がありましたよ。僕はまだチームワークで仕事をしたかったんです。でも、サイトウさんは一匹狼的な人だし、デザインセンターでは「サイトウさんのアシスタントは2ヶ月持たない」と言われていた。それが僕、あっという間にチーフになれて。その間に倒れた人も多かったな(笑)。

──頑丈だったんですね(笑)。

駿東●周囲にもそう言われました。でも、自分よりやる気と能力がある人でしょ。だから毎日が楽しくて刺激がありましたよ。サイトウさんは明確な独立志向で、会社内でも実績を作りながら、他にもやりたい仕事はプレゼンしてました。僕もいろいろ連れて行ってくれた。

──鍛えられましたね。

駿東●70年代後半から80年代にかけてでしょ? 時代的に新しいキーワードがいっぱいあったので、とにかく気合い入れて元気よく喋ってたなあ。

──理論武装で。

駿東●やりたいことを説明してね。「わからないけど君たちにまかせるよ」っていう時代でしたね。

──その時代、いまに繋がる一番身に付いたことは?

駿東●基本がないと話にならなかった。やっぱり最終的なフィニッシュまで責任持つ。偉いADになるとフィニッシュはまったくしませんからね。版下屋さんに任せれば、ある程度は仕事ができた。だけど、それを全部やるという能力はつけさせられた。よく言うけどブッダの苦行みたいなものですよ。一番辛い林に入って踏み入って行く……そんな気がします。足下は炭に火がついてるし、山登りだし、針の上を歩かされる。それをずっとやってきたとき、デザインって道が見えてくるから、全然苦にならなかった。


新潮社『03 tokyo calling』表紙新潮社『03 tokyo calling』創刊広告

「Hysteric Glamour」広告「コスモ石油」広告

独立後(1985〜1991年)の仕事より
上左/新潮社『03 tokyo calling』表紙(1990年)
1989年創刊の月刊誌、通称「ゼロサン」。コンビニでも販売していて、この号は即完売だった。
AD:駿東宏 カメラ:ヨーガン・テラー
上右/新潮社『03 tokyo calling』創刊広告(1989年)
ゼロサン創刊広告。モデルはレスラー・俳優・モデルの組合せになった。
AD:駿東宏 カメラ:松本康男 メイク:河野ミツル スタイリング:北村道子 CD & Copy:糸井重里
下左/「Hysteric Glamour」広告(1986年)
アパレルメーカー「ヒステリック・グラマー」の広告。媒体は『マニュピュレーター』というB2サイズの雑誌。中米ガテマラ撮影。
AD:駿東宏 カメラ:松本康男
下右/「コスモ石油」広告(1985)
独立初仕事はイタリア・ロケ。新聞全15段広告、3連続展開。
AD:駿東宏 CD & Copy:村山孝文 カメラ:村越元


ブレックファーストに転籍



──デザインセンターには何年いたのですか?

駿東●4年半ですね。本当はサイトウさんの独立を期に一緒に出ようか……と話になっていたんです。でも、あるときレコード・ジャケットを見て衝撃を受けた。ジャズ・ピアニスト菊池雅章さんの『ススト』というアルバム。それが石岡怜子さんの作品でした。それを見て「日本にもすごい人がいる」と思って。

──で、石岡さんにアプローチを?

駿東●ええ。1年近く「雇ってくれ」と言い続けて「入れないと損失だぞ」って(笑)。ただ石岡さんが「ブレックファースト」に所属しているってこと、入る直前にわかったんだけど。

──サイトウさんは?

駿東●もう「あきらめてください」と。そうしたら「ブレックファーストの給料の倍を出すし、下にアシスタントもつける」と言うんです。でも、行かなかった。結局、一生アシスタントはいやだなと思ったんですね。自分のアイデンティティを追求するってことに燃えていたから。迷いはなかったですよ。

──サイトウさん、よく出させてくれましたね。

駿東●うん。でも、その後にブレックファーストの近くに越して来て。だから仕事が終わってから、よく遊びに行ってましたよ(笑)。

──ブレックファーストはどんな雰囲気でした?

駿東●そもそもブレックファーストって、クリエーターの先鋭集団だったんです。石岡さんもそうだし、杉本英介さん、野本卓司さんがいて、大竹伸郎さんもよく出入りしていました。で、僕が入社した頃が、ちょうど広告の制作に切り替わる時期。82年かな。僕はそれを期待された感じだった。でも前は大きな会社にいたから、最初はギャップがありましたよ。

──どのような?

駿東●石岡さんも杉本さんもデザインセンターの出身なんだけど、独立プロダクションでやっている人たちの目つきとスタンスはまるで違う。全部一人でやらなくてはならないんです。デザインセンターだったらプロデューサー、マネージャー、コピーライター……と分業だけど、ブレックファーストは百人分をたった10人で切り盛りしていたから。

──少数精鋭ですね。

駿東●うん。だからクライアントとの打ち合わせ、カメラマンの交渉、ロケハン、できたものを届けに行って……と、全部一人でこなさなければならない。当時のスケジュール帳を見ると、朝から夕方まで、夕方から深夜、深夜から朝までと三部構成(笑)。3年間いたけど、電車で帰ったこと数回しかない。仕事終わったら寝ないでボーリング行って、また朝出勤するような生活でした。

──収入は?

駿東●意識したことなかった。給料、全部レコードに替わっていたから。実家住まいだったし、自分が食える分だけあればいいかと。その先は見えてなかったね。行く先、仕事がないという不安がまったくなかったし。とにかく自信もあったしバイタリティもあった。

──で、3年後に辞めて……

駿東●29歳で独立しました。ほんとは25〜6歳で独立したかったけど、遅かったね。


次週、第4話は「佐野元春さんとの出会い」を掲載します。

(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)


駿東宏さん

[プロフィール]

すんとう・ひろし●1955年、東京都生まれ。武蔵野美術大学を中退後、サイトウ・マコト氏に師事。日本デザインセンターを経て、ブレックファーストに勤務。85年「スントー事務所」として独立後、佐野元春やオリジナル・ラヴをはじめとする音楽プロダクト、雑誌、映画広告などを手がける。現在「エスジー」(Sunto Graphics)を主宰。

http://www.sg-tokyo.com




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