さまざまなジャンルで活躍するデザイナーの来歴をたどるシリーズ。今回はグラフィック・デザイナー、イラストレーターのマーチン荻沢さん(HIT STUDIO)を取材し、今日までの足跡をたどります。
第1話 ヒッピーになりたかった
新宿区歌舞伎町の仕事部屋にて、マーチン荻沢さん
学園紛争の高校時代
──小さい頃は、どんな子供でした?
荻沢●小さい頃って、あんまり記憶ないんだよね……。裏山で遊んだとか、割とアウトドア派でしたよ。勉強よりか、みんなで遊んだり、川に魚とりに行ったり。生まれ育った八王子も、まだ自然が残っていたからね。昔、山だったところが、いまは駅になっちゃってる。京王線が通って、どんどん開発されて、いまニュータウンで団地ばかりになっちゃったけど。
──成績は?
荻沢●普通かな。図工は好きだったけど。中学校のときの先生が好きだったから。
──女の先生?
荻沢●違うよ(笑)。男の先生だけど、いい先生で。無精髭はやして、のらりくらりしているような人で。普通の先生とちょっと違うタイプで、その先生が好きだった。図工とか音楽の先生って、ちょっと変わり者が多いじゃない。その先生も完璧に変わり者だろうな。
──その影響もあって絵を描いたり?
荻沢●うん。どういう漫画が面白いだとか、そういうことも教えてくれて。絵に興味を持ち始めたのは、それからだね。高校に行っても……あ、高校は都立南多摩高校だったんだけど、そのときの絵の先生は嫌いだったの。だから美術をとらなかった。
──ご家庭は?
荻沢●お袋が小学校の先生。親父は普通の会社員。
──厳しかった?
荻沢●いやー、全然そんなことなかったね。で、お袋が絵が好きだったんだね。本当は絵を教えたかったのかな。だから俺が美大に行きたいって言ってもOKだった。
──家庭環境的に芸術の要素はあったんですか?
荻沢●多少はね。絵の関係の本があったり。
──でも、まさかそれが商売になろうとは思わなかった?
荻沢●うん。思わなかったね。
──美大に進もうと思ったのは?
荻沢●高校1年の頃は学園紛争で、学校が封鎖になってたの。だから、毎日のように団体交渉で先生を吊るし上げたり、学校の生活をよくしようとか、そういう話し合いばかり。まったく勉強してなかったんだ。2年になって学園紛争が収まって、それで勉強するようになったんだけど、もともと勉強好きじゃない。それで絵の方をやりたいなと思って、3年から絵の予備校に通い始めたんだ。
荻沢●小さい頃って、あんまり記憶ないんだよね……。裏山で遊んだとか、割とアウトドア派でしたよ。勉強よりか、みんなで遊んだり、川に魚とりに行ったり。生まれ育った八王子も、まだ自然が残っていたからね。昔、山だったところが、いまは駅になっちゃってる。京王線が通って、どんどん開発されて、いまニュータウンで団地ばかりになっちゃったけど。
──成績は?
荻沢●普通かな。図工は好きだったけど。中学校のときの先生が好きだったから。
──女の先生?
荻沢●違うよ(笑)。男の先生だけど、いい先生で。無精髭はやして、のらりくらりしているような人で。普通の先生とちょっと違うタイプで、その先生が好きだった。図工とか音楽の先生って、ちょっと変わり者が多いじゃない。その先生も完璧に変わり者だろうな。
──その影響もあって絵を描いたり?
荻沢●うん。どういう漫画が面白いだとか、そういうことも教えてくれて。絵に興味を持ち始めたのは、それからだね。高校に行っても……あ、高校は都立南多摩高校だったんだけど、そのときの絵の先生は嫌いだったの。だから美術をとらなかった。
──ご家庭は?
荻沢●お袋が小学校の先生。親父は普通の会社員。
──厳しかった?
荻沢●いやー、全然そんなことなかったね。で、お袋が絵が好きだったんだね。本当は絵を教えたかったのかな。だから俺が美大に行きたいって言ってもOKだった。
──家庭環境的に芸術の要素はあったんですか?
荻沢●多少はね。絵の関係の本があったり。
──でも、まさかそれが商売になろうとは思わなかった?
荻沢●うん。思わなかったね。
──美大に進もうと思ったのは?
荻沢●高校1年の頃は学園紛争で、学校が封鎖になってたの。だから、毎日のように団体交渉で先生を吊るし上げたり、学校の生活をよくしようとか、そういう話し合いばかり。まったく勉強してなかったんだ。2年になって学園紛争が収まって、それで勉強するようになったんだけど、もともと勉強好きじゃない。それで絵の方をやりたいなと思って、3年から絵の予備校に通い始めたんだ。
マーチン荻沢さんの仕事より
上段:ペインティングに味わいのあるイラストレーションより
下段左から、ブックデザインを手がけた『VOW 19 街のヘンなもの大カタログ』(2007年)『VOW王国 青春篇』(2001年)『VOW POP vintage!』(2006年)宝島社
上段:ペインティングに味わいのあるイラストレーションより
下段左から、ブックデザインを手がけた『VOW 19 街のヘンなもの大カタログ』(2007年)『VOW王国 青春篇』(2001年)『VOW POP vintage!』(2006年)宝島社
一浪後、多摩美に合格
──職業的にどんなビジョンを描いていました?
荻沢●その頃、35年前とか……自分がどうやって食べていこうとか、気にしなかったんだよね。いまってスゴイじゃん。就職活動とか、すごくみんな気にしているでしょ。俺らの頃は全然気にしなかったもん。
──なんとかなるだろう、と。
荻沢●うん。ヒッピーになりたかったから(笑)。好きな絵とかやりながら、ちょぼちょぼ暮らしていければいいやって。
──ストレートで進学したんですか?
荻沢●いや、一浪した。
──学科で?
荻沢●美大は何で落ちたか、わからないんだよね。藝大も現役のときに受けたんだけど、一次はデッサン、二次は水彩、三次は学科試験とかで、一次で落ちればデッサンがダメだったってわかるじゃない。でも、普通の私立は全部やり終わってからわかるから、何がダメだったか、わからないね。
──それから勉強して。
荻沢●そんなシャカリキじゃなかったけど。
──1年後、どこに入学を?
荻沢●多摩美のグラフィックデザイン科に合格した。
──デザイナーというのは、ひとつ選択肢としてあったんですか?
荻沢●いや、まだ高校の頃って、自分がグラフィックデザインをやりたいのか、油絵やりたいのか、彫刻やりたいのか、そんなにわからないじゃない。とりあえず、当時の雑誌とかでみると「グラフィックデザイナーがかっこいいな」とか。そういう感じだった。
──横尾忠則さんとか。
荻沢●うん。当時は横尾さんが一番の憧れの人だったかな。
──入学して、どうでした?
荻沢●楽しかったよ、すごく。勉強は……学科は勉強しないけど、絵は描いたね。グラフィックデザインだから、いろんなことをやるんだ。写真やったり、色の構成やったり、デッサンやったり。だから、楽しかったよね。4年間は。
──その中から自分の得意なものを探していくような?
荻沢●ま、そうだね。で、大学3年ぐらいのときに偶然、湯村輝彦さんと出会って、それから本格的にデザインやろうかな、と。
荻沢●その頃、35年前とか……自分がどうやって食べていこうとか、気にしなかったんだよね。いまってスゴイじゃん。就職活動とか、すごくみんな気にしているでしょ。俺らの頃は全然気にしなかったもん。
──なんとかなるだろう、と。
荻沢●うん。ヒッピーになりたかったから(笑)。好きな絵とかやりながら、ちょぼちょぼ暮らしていければいいやって。
──ストレートで進学したんですか?
荻沢●いや、一浪した。
──学科で?
荻沢●美大は何で落ちたか、わからないんだよね。藝大も現役のときに受けたんだけど、一次はデッサン、二次は水彩、三次は学科試験とかで、一次で落ちればデッサンがダメだったってわかるじゃない。でも、普通の私立は全部やり終わってからわかるから、何がダメだったか、わからないね。
──それから勉強して。
荻沢●そんなシャカリキじゃなかったけど。
──1年後、どこに入学を?
荻沢●多摩美のグラフィックデザイン科に合格した。
──デザイナーというのは、ひとつ選択肢としてあったんですか?
荻沢●いや、まだ高校の頃って、自分がグラフィックデザインをやりたいのか、油絵やりたいのか、彫刻やりたいのか、そんなにわからないじゃない。とりあえず、当時の雑誌とかでみると「グラフィックデザイナーがかっこいいな」とか。そういう感じだった。
──横尾忠則さんとか。
荻沢●うん。当時は横尾さんが一番の憧れの人だったかな。
──入学して、どうでした?
荻沢●楽しかったよ、すごく。勉強は……学科は勉強しないけど、絵は描いたね。グラフィックデザインだから、いろんなことをやるんだ。写真やったり、色の構成やったり、デッサンやったり。だから、楽しかったよね。4年間は。
──その中から自分の得意なものを探していくような?
荻沢●ま、そうだね。で、大学3年ぐらいのときに偶然、湯村輝彦さんと出会って、それから本格的にデザインやろうかな、と。
次週、第2話は「湯村輝彦さんとの出会い」を掲載します。
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
(取材・文:増渕俊之 写真:FuGee)
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[プロフィール] まーちん・おぎさわ●1953年東京都生まれ。多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業後、高橋キンタロー氏とともに「HIT STUDIO」を設立。宝島社『VOW』シリーズをはじめとするグラフィックデザイン、イラストレーションの両輪で活動を続けている。http://hitstudio.net/ |