現在、雑誌『PLAYBOY』をはじめ、エディトリアル・デザインの“達人”として活躍している白石氏。事務所スタッフ6 名を率いて、ひと月およそ500ページ以上(!)を手がける才覚とバイタリティはどこから生まれたのだろうか? DTP時代にクラシカルなデザイン感覚を 頑に貫き通す、その礎と軌跡を語っていただこう。
第1話 薄っぺらなバブル反発からの出立
イラストレーター志望から美大へ
――そもそも、デザイナーを志そうと思ったきっかけは?
白石●子どもの頃から絵を描くのが好きで、最初はイラストレーターになりたかったんです。中学生から高校生の頃、ちょうど80年代でしたからパルコのグラフィック展などが盛んで、山口はるみさんやペーター佐藤さんに憧れていました。同時に、ああしたスター的なイラストレーターが活躍していた『ポパイ』や『anan』などの雑誌も好きで、単純にミーハーな動機で美大を志望したのですが……結局2年浪人しました。
――受験先はどこだったのですか?
白石●当初は東京芸術大学に行きたいと思っていましたが、落ちてしまって。さすがに2年目は親から「どこでもいいから入りなさい」と厳命されて、受かった武蔵野美術大学に進路を進めました。
――専攻は、どのような内容だったのですか?
白石●視覚伝達デザイン学科で、広告やエディトリアルなどのグラフィック全般です。面白かったのが、1?2年生で写真をみっちりやらされたこと。いまになってみれば、それが現在の仕事に活きているのかとも思っています。
――イラストは引き続き描いていたのですか?
白石●いや、やめちゃいました。入学したら周囲にグラフィック展を目指してるような連中ばかりで、彼らの本気に比べたら「俺はいい加減だな」って(笑)。
――では、大学の講議からデザインに芽生えて?
白石●いや、そのうち広告なども全部嫌になったんです。当時はバブル真っ盛りで、なんか全部薄っぺらな感じがしちゃって……。普通は卒業後、電通や博報堂などの広告代理店に就職して、クリエイティブな仕事を目指すじゃないですか。大貫卓也さんを筆頭に、業界のスターがたくさんいましたから。みんな、そっち側を目指していた感じがあったけれど、僕はそういうのが馬鹿らしくなってしまったんです。
白石●子どもの頃から絵を描くのが好きで、最初はイラストレーターになりたかったんです。中学生から高校生の頃、ちょうど80年代でしたからパルコのグラフィック展などが盛んで、山口はるみさんやペーター佐藤さんに憧れていました。同時に、ああしたスター的なイラストレーターが活躍していた『ポパイ』や『anan』などの雑誌も好きで、単純にミーハーな動機で美大を志望したのですが……結局2年浪人しました。
――受験先はどこだったのですか?
白石●当初は東京芸術大学に行きたいと思っていましたが、落ちてしまって。さすがに2年目は親から「どこでもいいから入りなさい」と厳命されて、受かった武蔵野美術大学に進路を進めました。
――専攻は、どのような内容だったのですか?
白石●視覚伝達デザイン学科で、広告やエディトリアルなどのグラフィック全般です。面白かったのが、1?2年生で写真をみっちりやらされたこと。いまになってみれば、それが現在の仕事に活きているのかとも思っています。
――イラストは引き続き描いていたのですか?
白石●いや、やめちゃいました。入学したら周囲にグラフィック展を目指してるような連中ばかりで、彼らの本気に比べたら「俺はいい加減だな」って(笑)。
――では、大学の講議からデザインに芽生えて?
白石●いや、そのうち広告なども全部嫌になったんです。当時はバブル真っ盛りで、なんか全部薄っぺらな感じがしちゃって……。普通は卒業後、電通や博報堂などの広告代理店に就職して、クリエイティブな仕事を目指すじゃないですか。大貫卓也さんを筆頭に、業界のスターがたくさんいましたから。みんな、そっち側を目指していた感じがあったけれど、僕はそういうのが馬鹿らしくなってしまったんです。
白石デザイン・オフィスの入口。白石氏の趣味である鉄道模型、自転車などがあふれかえる。本棚には、資料用の50?60年代の洋雑誌が整然と並んでいる
就職あぶれから、エディトリアル・デザインの道へ
??それでは、大学もあまり通わずに?
白石●在学中、慕っていた教授の及部克人さんが、広告とは全然違う方向で町づくりなどのワークショップをやってらして、建築家や出版関係者と交流されていたんです。及部さんと一緒にいるといろんな人に出会えるので、大学よりもそっちのほうが面白いじゃないかと思うようになりました。で、設計事務所のバイトを紹介していただいたり……まあ、遊んでたんですね。一応、卒業できる程度は学校にも通っていましたが。
――就職については、どのように考えていたのですか?
白石●やはり在学中、大手出版社でバイトしてて、漫画誌の読み物ページのレイアウトをまかされたりしてたんです。編集者から「お前、できるだろ?」って(笑)。その一方で、あの頃の新卒は売り手市場だったから、同級生たちはみんな就職先が決まってる。僕なんかは、そんな感じだったからあぶれちゃった。でも、いまでいうフリーターですが、出版社のバイトなどでも十分食べていけるぐらいの収入は稼げていたんです。
――では、就職しなくてもいいか……と?
白石●そう。半年ぐらいブラブラしてましたね。ところが及部さんに「このままフリーでやってても、ちゃんとしたところで修行しないとダメだ」と忠告されて。そこで紹介されたのが、木村裕治さんの事務所だったんです。面接に行ったら「いつから来れる?」と訊かれて、僕が「明日から来れます」と答えたら即決でした。
――当時、木村さんの仕事といえば……
白石●ちょうど『Esquire』の日本版が創刊された年ですね。全日空の機内誌『翼の王国』も、僕が入った直後から手がけ始めたように記憶してます。……とはいえ失礼な話ですが、それまで木村さんのことを全然知らなかったんです。でも、及部さんが言うのならば間違いないだろうって。このときから、本格的にエディトリアル・デザインを仕事にする道が始まったわけです。
現在、白石氏がアート・ディレクションを務めている『PLAYBOY』日本版の30周年記念号。付録の創刊号ミニチュア復刻版が、表1の透明セロファンから覗いている。屈強でスマートな文字組、ホワイト・スペースの絶妙なバランスが、白石デザインの本領だ
次週、第2話は「雑誌の『骨格』を学ぶ」についてうかがいます。
(取材・文:増渕俊之 写真:谷本 夏)