
TEXT:大谷和利(テクノロジーライター、AssistOnアドバイザー)
アイブは、大学時代にPCを使おうとして思うように動かせず、それは自分に非があるのだと考えた。しかし、Macintoshに触れたときに、実のところ問題はPCの側にあったことに気がつき、ソフト次第で機能が変わるコンピュータをデザインすることに興味を持つことになる。
しかし、それなりに成功していたTangerineを辞めて家族と共にロンドンからカリフォルニアに引っ越し、Appleに移籍することにはリスクが伴う。そのため、ロバート・ブルナーが何度もアイブにアプローチするものの、アイブが首を縦に振ることはなかった。
ところが、意外なところから転機が訪れる。そのきっかけは、Tangerineのクライアントの1つで、バス・衛生陶器を手がけるベルギーのIdeal Standardから、アイブのデザインはモダン過ぎ、コストがかかり過ぎるとの理由で拒絶されたことだった。夢や理想を共有できない相手と仕事はできないと感じたアイブは、ついにブルナーの誘いを受けてAppleの一員となったのである。
常にデザイン上の挑戦を続けてきたアイブには、もう1つ、Appleで仕事をすることへの期待があった。というのは、「形態は機能に従う」というバウハウスのデザイン哲学の影響を受けた彼は、それまで美容室向けのクシや住宅用のバスタブなど実に様々な製品を、その哲学に基づいてデザインし、ある意味でそれを極めたといえるところまできていたからだ。
先に触れたように、固有の機能を持たないコンピュータをデザインするには、別の視点からのアプローチが必要となる。アイブは、それを自らが解決すべき課題と捉え、未知の世界へと飛び込んだのである。
それから27年の間、アイブと彼のチームは、単に製品の外観やユーザー体験をデザインするだけでなく、素材そのものや製造方法自体を新たに構築することによって、電子機器のデザインに新たな地平を切り拓き続けてきた。
その過程で、アイブ自身も多くのノウハウを身につけ、マーク・ニューソンという、こちらも稀代の天才的デザイナーと親交を深め、2人で協力してウォッチコレクターとしての知見を注いだApple Watchのデザインも手がけることができた(ニューソンと共にビンテージカーのコレクターでもあるため、内部的にはApple Carに向けたデザインスタディも進められていたと考えられる)。そして2017年には、世界的なデザイン教育機関である、RCA(ロイヤル・カレッジ・オブ・アート)の理事長にも就任した。
27年前のアイブは、才能に溢れていても、そうした素材や製造技術、人脈へのアクセスが限定的なものだった。だが、今やそのすべてをコントロールできる立場にあり、かつて、やり尽くしたと思えたコンピュータ以外のアイテムのデザインをさらに革新していけるというビジョンを持つに至ったとしても不思議ではない。
ここ数年、それらの製品のデザインが、一見すると代り映えしないように思えるのは、デザインチームを率いるアイブが電子機器のデザインに飽きてしまったからではなく、現在のデザインよりも明らかに優れたものに到達できない限り、新たなデザインを世に送り出す意味がないと考えているためだ。
同様に、アイブがニューソンと共に独立したデザイン会社を立ち上げるのも、単純に他の分野のデザインを再度手がけたくなったということではない。過去27年間で得た知識やコネクションを活かすことで、かつては不可能だったレベルの本質的に優れた製品を世に送り出すことができるという確信を得たからに他ならないといえよう。
それをAppleのビジネスとして行えるなら、あえてアイブとニューソンが同社から離れる必要はなくなり、実際に2人がティム・クックに、外部に対するデザインコンサルティング事業を提案した可能性もゼロではないと思える。しかし、同社がそのような事業拡張を行うことはなく、上記の確信を現実のものとするには、独立するしかなかったのだろう。
ただ、アイブが期限つきではあるがRCAの理事長のオファーを受けたことからも、後進デザイナーの育成にも意識が向いていることは確かだ。Appleのデザインを次の段階に進めるためには、自分とは異なる人物がリードする段階に来たと考えている部分もあるものと思う。最近のApple社内のデザイン検討会議で、自らはコメントを発せずに退出することがあるとの報道もなされたが、それも電子機器のデザインに興味を失ったのではなく、自分のディレクションなしにプロジェクトが進むかどうかを見極めようとしたととらえることもできる。
もちろん、アイブの現在の名声をもってしても、他企業とのコラボレーションによって、Appleと同レベルの理想的なデザインを追求できるかどうかは未知数といえる。マーク・ニューソンでさえ、Apple Watch以前に時計メーカーと行なった製品開発について、自分の考えやこだわりを作り手に理解してもらえないことを嘆いたほどだからだ。
いずれにせよLoveFromが、ライカやスタンウェイピアノのような高級品メーカーのみをクライアントとせず、かつてニューソンが手がけた味の素の容器のように、一般消費者にも手の届く日用品にも、その才能を注ぎ込めるようになることを心から願っている。

ジョニー・アイブがマーク・ニューソンと共にデザインしたライカのカメラ

ジョニー・アイブがマーク・ニューソンと共にデザインしたスタンウェイのピアノ

大谷 和利(おおたに かずとし) ●テクノロジーライター、AssistOnアドバイザー
アップル製品を中心とするデジタル製品、デザイン、自転車などの分野で執筆活動を続ける。近著に『iPodをつくった男 スティーブ・ ジョブズの現場介入型ビジネス』『iPhoneをつくった会社 ケータイ業界を揺るがすアップル社の企業文化』(以上、アスキー新書)、 『Macintosh名機図鑑』(エイ出版社)、『成功する会社はなぜ「写真」を大事にするのか』(講談社現代ビジネス刊)、『インテル中興の祖 アンディ・グローブの世界』(共著、同文館出版)。